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言葉は薬になるか

ここ半年ほど、訳あって抗うつ剤をのんでいる。が、先日、病院をキャンセルした都合で1週間ほど薬を飲むことができなかった。そんなこともあり、ネガティブな想像が頭の中をぐるぐるめぐっては、一人で落ち込む日々を過ごしていた。一方で、薬を再開した途端、気持ちが落ち着いて中庸の精神は簡単に戻って来たというのだから世話はない。結局人間というのは物質に支えられ、気分でさえも物質に左右されるのだということを実感した。

そんな中で考えていたことは、言葉というものの効力についてだった。人間があくまで物質的存在であるとして、薬一つで簡単に気持ちを変えられるのであれば、僕の持つ言葉にはどんな意味があるのだろう。何かを語ることは、僕の飲んでいる薬以上の効力を人に与えることができるのか。言葉なんて回りくどいツールを使うより、薬などのより直接的なアプローチのほうが精神の健康に意味があるとしたら…。

言葉は所詮、実在としては抽象的な次元のものにすぎない。それは空気の振動であるから物質的な土台を持っているが、人がそれを言葉として受け取るためには、相手がその振動を意味のある音として受け取る必要がある。そして、その音に意味があると判断されるためには、相手がその音を聞いて内容をイメージできる必要がある。言葉が抽象的なものだというのはそういうことだ。

思い返せば、僕が抗うつ剤を飲み始めるほどに苦しんでいた時期は、どんなポジティブな言葉も冗談にしか聞こえなかった。「頑張って生きていればいいことがあるよ」「笑えば前向きになれるよ」。そうした言葉は僕の耳を通ることはなく、むしろ、それらの励ましに対して苛立ちを隠せない自分が嫌で、罪悪感が心を打ちつけてやまなかった。そういうわけで、僕は言葉というものへの信頼をどんどん失っていった。結局のところ言葉は人の心を変えることはできない。それは、薬を飲んだら気持ちが多少安らいでいった過程そのものが証明している。そんなことすら考えていた。

しかしよくよく考えてみると、僕を壊していたのも言葉だった。僕がこんな状態に陥ったのは上司との不和――今思えばパワハラということになるのだろうが――が原因だった。僕は上司に浴びせかけられる言葉にいちいち敏感に反応し、それを頭の中で反芻し、傷つき、というサイクルをひたすら繰り返していた。「いつになっても成長しないな」「こんなの正社員の出す成果じゃない」そんなことを言われ続けた結果がこのザマだ。だから、言葉は人を変えられないという考えは、その起点からして矛盾していた。そう気づいたのは最近だった。

だから、結論としては、言葉にはある程度、人を変える力があるのではないかということになる。とはいえ、やはり物質的なアプローチのほうが即効性が高いことは経験上事実だとも感じている。薬に限らず、香りや物の配置などが気分に影響するように、物質的な環境が人に及ぼす力は目に見えてわかる。では、言葉はどうなのだろう。言葉など所詮は抽象物にすぎないのに、ただそれによって勝手にイメージを作り上げているにすぎないのに、人はそれによって喜び、悲しみ、傷つくのだろう。こうして文章を書いているときにも、こうした不思議さが疑問として湧いてくる(そして、僕はきっとこれからも問い続けるのだろう)。

僕はさほど、言葉について、人を変えるような力を信用しているわけではない。でも、僕はきっとこれからも言葉を捨てられないし、言葉というものを使い続けていくのだろう。それは、僕の言葉で誰かが変わってくれたらとても嬉しいと思うからだ。僕の知らない誰かに届くこと、それはきっと、他にはない言葉の特徴だと思うから、僕はこうして書いている。そして、僕が言葉を信頼する理由などそれだけで十分なのだ。言葉の力はとても弱いが、弱くても誰かに届くまで使い続けていく。それが、現時点での僕のスタンスである。


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