メダカ並みの理性 -北海道いじめ事件に思う-
メダカにもいじめがある。いじめっ子は自分で作り出したテリトリを主張して、そこに入ってくるメダカに容赦無い体当たりをかます。突かれた方はびっくりして跳ね上がる。跳ね上がった先がたまたま水槽の外なら、そのまま干からびて、死ぬ。最近になって、いじめを良くみるようになった。これは、エサを1日3回から1日1回に減らした時期と重なる。少しでも多くのエサを食べるためにはテリトリが必要なのだ。
つまり、いじめが起きるかどうかは、エサがふんだんにあるシステムに属するかどうかという運に関わる。いじめられる対象になるかどうかは、テリトリを主張したがる嫌な奴のそばにいるかどうかという運だ。すべて運なんだ。いじめられる側の能力の問題ではない。いじめられるメダカの体が弱いとしても、逃げ場が十分に確保されていれば、いじめからは回避できる。
これは人間の場合もまったく同じだ。システムが正常に機能していて飢餓感が生じなければ、いじめは起きない。
では、人間の感じる飢えとは何だろうか?
それは、愛や夢や生きがいではないだろうか。勝ち組か負け組かという価値観でのみ優劣を競い合う社会、勝者の枠が非常に限られたようにみえる社会に、夢はあるだろうか。核家族、離婚家族が増えて、充分な愛を受けず、自分を受け入れてくれる逃げ場もない。「誰も俺のことを認めてくれない。」「どうせ俺は成功者にはなれない。」「親のいない私には価値がない。」そんなシステムの中を我々は生きている。
つまり、いじめはなくならない。
救いがあるとすれば、人間はメダカではない、という一点に尽きる。人間には意志があり理性があり、愛がある。この点において、わずかに救われる希望がある。われわれにできることは、少しでも多くの愛をシステムに注ぐことだ。システムに対して、十分な量の愛が注がれた時、そのとき初めていじめはなくなるだろう。
逆にいえば、そうならなければ、人間も本質的にはメダカと同じだということだ。
旭川の中学生が自殺したという週刊誌報道があった。壮絶ないじめだ。私も記事を読んで、娘をもつ父として血が沸騰しそうになった。記事には、妊娠した時のエコー写真が公開されている。胸に迫ってくるのは、子供が生まれる前の奇跡ともいうべき期待感と、自殺という絶望的なできごとの落差だ。ご家族の空虚感がするどく心に刺さる。
それを読んだ読者から、旭川市に苦情が殺到したという。
当然だという感情と、いじめた少年たちを糾弾することに愛はあるんだろうか、という理性の間で揺れ動く。