#270 親不孝介護 私の場合
こんばんは フミオです。
親不孝介護という言葉があります。親が介護状態になった時に「こども、だから」と責任を負うのでなく、「介護のプロ」に任せた方がいいということらしいです。
介護のプロに任せるとは、どのような意味なのでしょか?私も「親不孝な親の介護」をしたと思う(後悔)があるのでとても気になっています。
「親が医療・介護が必要になった状態になりました」その時々に「予期せぬ危機」かもしれない、「決断」をしなければいけないかもしれない。
■「予期せぬ」又は「決断」は、あなたに何に気づきますか?
自分にとって「大切であるもの」「大切でないもの」「大切であるけれども・・・・こうなって欲しい」何かと比べ、自分の気持ちで決めていないだろうか?
私の場合は、私が無意識にイメージしていた(甘え、依存を含んだ)気持ちに気づかされ、頭ではわかっていました。しかし、実際に親の姿を目にすると考えたくない向き合いたいくない気持ちでいっぱいで自分の気持ちをコントロールするのが精一杯した。
「大切であるもの」ではありましたが、考えることをしたくない気持ちでいっぱいでした。気づいたことは、意外と何もできない、考えたくない小さな自分に気づいただけです。考えることが面倒くさい気持ちもありました。
これを読んでくださった方は、どうでしょうか?
■この気づきから、「大切なもの」について、わかったことは?
大切ではあるけれど、大切であり続けることはないかもしれない。私が小学校のころは、同世代の友だちの親より一回り以上年齢が大きく参観日や運動会など「どうして、自分の親は歳なんだろう?」と考え、だから、早く親が亡くなってしまうんでははいか?とそんなことを思っていました。
そんな私が、社会人になり結婚もし、家庭を持つようになり。親と私
から家族の中の親と私になっていたことに気づいたこと。1番に向き合っているのが自分と妻、こども。そして、親になっていることです。
大切なものは、変化することですね。理由は、よくわかりません。
これを読んでくださった方は、どうでしょうか?
■「大切なもの」について、ハッキリしたことは?
どんなに私が年齢を重ねても親であること、そして、私にとっては「文句を言っても、怒っても、愚痴を言っても・・」心なら遠慮なく言葉を吐き出せる対象だったということです。
そして、現在「大切なもの」私が妻やこどもたちにどのような姿であるのがいいか?現在の気持ちは「足を引っ張りたくない」という表現が一番スッキリします。
と「大切なもの」である自分自身には、晴れる見栄は張って嫌なことはしたきない!というポンコツな気持ちです。
■今日のnote
現時点では、「親不孝介護」とは、きっと自分らしさ(個々人で思う)が維持できることができない場合には、自分で介護をすると考えるより「介護のプロ」と称される方にお願いした方がいい。
かえって、「自分はこうあるべき」と考えて、自分らしさを失い大切な方に
不利益がかからいことが最善であり、それは、誰かと比べることではない!ということなんだと思います。
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