幸せとはいったい何なのか?とその尺度について
嬉しい、楽しい、気持ち良い、面白い、おかしい、好き、好ましい、happy、lucky etc・・・
世の中には形は違えど、いろんな「幸せ」というものが溢れている。
嬉しいことがあれば素直に嬉しいし、楽しいことがあれば素直に楽しい。
「幸せ」という感情は、人が生きていくうえで欠かすことのできない、一種の潤滑油のような存在だ。
「幸せ」というものが日常において多ければ多いほど満ち足りた人生になるだろうし、逆に少ないとどこか暗く満ち足りない人生となるだろう。
しかし、単に「幸せ」とは言っても、それをうまく説明できる人は稀ではないだろうか。
「幸せ」というもの自体が抽象的であり、姿が見えずどこか漠然としている。
だが、漠然としていながらも、個人に与える影響力や波動はとてつもなく大きい。
「幸せ」とは多分、十人十色であって色合いも味わいも様々だと思う。
自分はこれを幸せと感じるが他の人はそうでもない、というような現象も実際に起こる。
食事において、例えば自分は味より量でありたくさん食べれることに幸せを感じても、知人の誰かは量より味であり、少なくても味わいで満足できればいい、というような違いが発生する。
雨が降っているときのしんみりとした世界観が好きだという人もいれば、雨が降ると濡れるし寒いしとても嫌だ、という人もいる。
このような、人によって幸せに関する世界観が違うのは、また面白いことだ。
私は昔、いまの職業である心理カウンセラーになる前、幸せというのは大きなパーツであり、その一つの幸せが強烈な多幸感を感じさせると思っていた。
多くの人が良くいう言葉に、
「幸せになりたい」
というものがある。
これはまさに、漠然とした大きな幸せのパーツがどこからか自分に舞い降りてきて、気がつけば多幸感に包まれていた、という願望の言葉ではないだろうか。
幸せ=大きなパーツと認識しているので、たぶん小さな幸せのパーツには気がつかない。
これはあくまで私の解釈だが、「幸せ」というのは大きな一つのパーツではなく、日常のなかに転がっている小さなパーツではないだろうか。
そして、それに気づき、それを拾い集めて大きなものにしていくのではないかと思っている。
そう考えると、小さな幸せというのは案外近くに落ちていて、その時の気分やメンタルによるかもしれないが、それに気がつけるか?つけないか?が大きなカギだと思う。
普段の生活のなかで、
「毎日がつまらない」
「ツイてないことばかり起こる」
「なんて私は不幸なんだろう」
ということばかり考えていたり思っていると、たぶんその人は小さな幸せのパーツに気がつかない。
つまらない、ツイてない、不幸と感じている部分がフォーカスされ、これを逆転するには大きな幸せがドカン!!とこないと納得できないだろうと思う。
だが、もう一度言うが幸せというのは小さなパーツなので、大きな幸せのパーツが落ちてきて絶大的な幸せに包まれる、ということはあり得ない。
また、たぶん、落ちている小さな幸せのパーツは、日頃から「感謝」というものを意識して生活している人により多く見えるように思う。
「感謝」というのは有難きと感じる心であり、そこには純粋でまっさらな気持ちがある。
何かしらにつけて、
「ありがとうございます」
としっかりと伝えられる、しっかりと気持ちを表せる人は、繊細に相手を思いやることができる人と言えるだろう。
ただ、あくまで建前として、とりあえず言っておこうという気持ちでの「ありがとうございます」はあまり意味を持たない。
建前や言っておこうといった形式的な「ありがとうございます」には感情が乗っておらず、すなわち純粋な「感謝」になっていない。
ちょっとしたことでも、些細なことでも、心から「ありがとうございます」と言える人は感謝の感度があがり、それに比例して小さな幸せのパーツが見つけやすくなるのだろう。
もちろん建前でも気持ちが乗っていなくても「ありがとうございます」は言っておくべきだし、相手も嫌な気持ちにはならない。
ただ、小さな幸せのパーツを見つける視界はあまり開けず、見落としてしまうのだと思う。
心からの感謝ができ、幸せへの感度が上がり、小さな幸せのパーツを見つけやすくなったとき、普段の生活は色彩を浴び、彩り豊かに満ち足りた人生となるだろう。
ちなみに、小さな幸せのパーツというのは、本当に些細な小さなものだ。
例えば、思っていたより外が暖かかった、お風呂が気持ち良かった、ビールが美味しかった、ボーっとする時間が取れた、可愛い赤ちゃんを見た、素敵な老夫婦を拝見した、期待していなかったお茶が思いのほか美味しかった、など。
あげればきりがないが、どこにでもありそうなこと、普段の生活のなかで散らばっているもの、それらを見つけ、感じ、気持ちが暖かくなれば、それは小さな幸せのパーツを拾ったことになるだろう。
それらをどんどん拾い集め、気持ちが穏やかに緩やかに、多幸感に大きく包まれているとき、それが漠然とした「幸せ」というものの正体なのだろう。
心の病に陥っている人はとくに後ろ向きになりやすく、小さな幸せのパーツに気がつきづらい。
それは苦しくてツラい自分にフォーカスしているので、周りの景色を見る余裕がそもそもないからだ。
ただ、ほんの少しだけ、自分ではなく外側に目を向けてみると、小さな幸せのパーツが落ちていることに気がつく。
小さな幸せのパーツを拾い集めることができれば、それはやがて多幸感となり、心の病ながらも暖かな気持ちに包まれるだろう。
どのような状態であれ、どのような状況であれ、感謝の気持ちを感じ意識して意図さえすれば、小さな幸せのパーツは必ず探し出せる。
心の病であってもそうでなくても、幸せを感じること、小さな幸せのパーツを拾う権利は誰にでもあると思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?