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(61) 世界の今と昔、東京国際映画祭に見る

映画の中の世界、今と昔
 映画祭の魅力の一つは、世界各地からの映像を見ることである。今秋の東京国際映画祭でも月並みな言葉であるが、私が今まで知り得なかった地域の歴史を垣間見ることが出来た。例えばコルシカ島でフランスに対する独立運動の歴史があり、アイルランドやバスクの独立運動と同様に、運動の方向について次第に内部分裂から殺し合いにまで至っていたことを『彼のイメージ(À son image)』(2024年、ティエリー・ド・ベレッティ監督、フランス製作)に見ることが出来た。またポルトガルの植民地政策下に長くあったアフリカのアンゴラに住む白人、黒人、混血の人たちの様々な思惑や感情が『英国人の手紙(Os Papéis do Inglês)』(2024年、セルジオ・グラシアーノ監督、ポルトガル製作)に広がりを持って描かれていた。

先進国での孤独
 現在世界が直面する問題も、映画の描く重要な題材の一つである。『トラフィック(Reostat)』(2024年、テオドラ・アナ・ミハイ監督、ルーマニア・ベルギー・オランダ共同製作)は、美術品盗難事件を通して先進国に出稼ぎに行くルーマニアの人々が直面する経済的格差や差別について考えさせる作品である。
 ルーマニアの小さな村出身の主人公ナタリーは、ベルギーの農園で働いている。続々とバスで到着するルーマニアからの出稼ぎ人と雇い主との間の英語通訳をし、アルバイトでパーティのウエイトレスもする。美術館で開催された豪華なパーティで、捨てられようとする残り物のオードブルを彼女が台所でこっそり持ち帰ろうとする場面で、パーティの主催者や招待客であるデカダンスに満ちた富裕階級の人々と、そこで働く人たちの歴然とした差が見て取れる。しかも招待者と話していた彼女が突然二人の屈強な男たちに両手を抱えられて連れ去られ、その後何が起こったのかは想像するほかない。
 ナタリーも夫のギネルもルーマニアの斡旋業者から天引かれる諸手数料があり、約束された時給10.5ユーロも最低賃金より低いようだが、それも支払われない。そんな中この夫婦は同郷のイツアに現状について相談すると、ギネルはイツアに犯罪の道へと導かれて行く。金持ちから奪っているだけだと自らの行動を正当化するイツアは、ギネルともう一人の仲間と3人で夜中に小さな美術館に押し入り、展示中の世界的名画を何点か盗み、盗品をギネルが故郷の村へ運ぶ。

『トラフィック』:© MINDSET PRODUCTIONS – LUNANIME – LES FILMS DU FLEUVE – BASTIDE FILMS – FILMGATE FILMS – FILM I VÄST – AVANPOST MEDIA – MOBRA FILMS

 被害にあった美術館を担当する警察の動きも早く、直ぐに犯人を突き止めて刑事たちが彼らの村までやって来る。対応するルーマニア首都の刑事たちは村人たちに差別的で、彼らは我々とは違う人種だと主張。その背景には古い慣習に縛られた保守的な社会の人々というだけでなく、村人の多くが出稼ぎに行っているので多数の空き家があり盗品の捜索も容易ではないという事情がある。そして首都の刑事たちは、我々はむしろ西欧の人々に近くて、追い詰められた犯人を含む村人たちとの考え方とは一線を画すと主張するのだ。
 ギネルたちにとって、ピカソとかゴーガンという名前が持つ重みは全く理解の範囲を超えていて、美術品は高く売れれば良い商品でありそれ以上の意味はない。そこで先進国のインテリたちが愛し崇める歴史的美術品を、ルーマニアの地方の村の犯罪者たちは、専門家が見たら叫び出しそうになりそうなぞんざいな方法で扱い隠す。
 先進国で働いていたナタリーは移民として友人もなく、誰からも人間扱いされない孤独を吐露する。ナタリー夫妻が帰るルーマニアの村も寒々とした風景が広がり、登場人物たちがどこへ行っても体験する冷たい感触を反映している。
 言葉少ない中、控え目にも人間としての意志を表現していたナタリーを演ずるアナマリア・ヴァルトロメイは、本映画祭コンペテイション部門の最優秀女優賞を受賞した。

洪水の世界
 アニメーション『Flow(Straume)』(2024年、ギンツ・ジルバロディス監督、ラトビア・フランス・ベルギー共同製作)が描くのは、水に覆われた世界である。深い森の中を徘徊する主人公の猫は、突然襲いかかる洪水から必死に逃れようとして、古い帆船にようやく乗り込む。ノアの方舟のようにコウノトリ、天竺鼠、メガネ猿、犬などの鳥や動物が次々と避難して来る。台詞なしで猫や動物の表情、鳴き声や叫び声のみで、彼らの体験する水、空、風などの感触がリアルに展開する。各場面の臨場感がただものではないのは、種々な水の表情や草、建物などを細部まで描き込んだ視覚デザインの秀逸さにある。個人名を与えられていない動物たちの細かい顔や身体の動きで各自の個性を次第にきわだだせ、観ている者にまで彼らのコミュニケーションに参加している気分にさせる。そして彼らは独自のコミュニティを形成し、協力して行くのだ。

『Flow』: ©Dream Well Studio, Sacrebleu Productions & Take Five

 冗長で時間がいつまで経ってもノロノロとしか過ぎていかない昨今の多くの映画の中で、本作は観るものをハラハラドキドキさせながら見事に85分で猫たちの体験する恐怖、喜び、驚きなどの感情を豊かに追体験させていた。地球温暖化の影響がひしひしと感じられる現在、この水浸しの世界もそれほど無縁のものではないと、本作を見ながら何度も思ったのである。

これぞ映画!
 「長過ぎる」と感じられる映画が多いのは何故だろう。見ている方はまたかと思う繰り返しや似たような場面も、作っている方はどれも思い入れがあり、切り捨てることが出来ないのであろう。また全体を通しての程よいリズム、抑揚や構成が見極められないこともあろう。見ていて登場人物に思い入れが出来なかったり、場面の展開について行けなかったりしても、不満がつのる。今回本映画祭で見た作品の多くは、残念ながらそのような種類の映画であった。
 その中で、メキシコのベテラン監督、アルトウール・リプステインの回顧展を見て、「これぞ映画!」とそれまでの消化不良を一気に払拭してくれる映画のパワーに圧倒された。今回上映された5作のうち、私は以前見た『境界なき土地(El lugar sin límites)』(1978年)、『深紅の愛(Profundo carmesí)』(1996年、今回上映されたのは2023年に披露されたディレクターズカット版)、『嘆きの通り(La calle de la amargura)』(2015年)の3作を見直すことしか出来なかったが、彼の作品は何度見ても魅惑される。
 日本ではあまり知られていないが、リプステインは国際的には紛れもない「巨匠」で、アメリカでも映画ファンには馴染みがある。私は1994年にハワイ映画祭の審査員を監督とご一緒して、この中南米を代表する作家を知った。
 リプステイン(1943年メキシコ生まれ)はユダヤ系で映画製作者の父を持ち、幼少期から映画に慣れ親しんできた。スペイン出身でメキシコでも作品を続々と作ったルイス・ブニュエルの映画に感化されて彼の映画の助監督を経て、1965年にガブリエル・ガルシア=マルケス原作のメキシコ流西部劇『死の時(Tiempo de morir)』で監督デビュー。以降TVドラマも含め現在まで監督作品は60作余。1991年以降は妻で脚本家のパズ・アリシア・ガルシアディエゴと共同で活動している。
 今回私が見直した3作はいずれも田舎町や都会の裏町に住む娼婦や犯罪者たちなど社会の底辺に蠢く人々が登場するメロドラマである。赤、黄、緑などのどぎつい原色が溢れる猥雑な背景に、登場人物たちは金欠状態から抜け出せない。汗にまみれ、欲望をギラギラと沸騰させる彼らの表情や身体を、大胆に移動し続けるカメラが舐めるようにゆっくり捕らえていく。

『深紅の愛』:courtesy of Tokyo International Film Festival

 彼の映画には時として何気ない不穏な雰囲気が浮揚してくる。『深紅の愛』で結婚詐欺を繰り返す伊達男が、自宅でガウンを着てリラックスしている時に履いているスリッパをよく見ると、派手な色のふわふわの毛がついていて、「何だ、これは」と思っていると後に彼が編み物をしている場面も出てきて、彼が母親を溺愛していたことが明かされる。リプステインの映画の美術や衣装には細心の注意が払われ、登場人物の特性や性格を視覚的に造形しているのだ。
 リプステインの映画はまた映画の記憶に満ちている。登場人物が憧れる異性として、第二次世界大戦前のフランスのスター、シャルル・ボワイエや、メキシコ出身の人気女優ドロレス・デル・リオの名前が登場する。また『嘆きの通り』では、近所の人々が娼婦の老母に物乞いをさせるためにカートに乗せてカタカタ音を立てながら運ぶのは、ブニュエル監督がメキシコで撮影した『忘れられた人々(Los olvidados)』(1950年)における同様な場面を彷彿させる。
 化粧して女装する『境界なき土地』の父、禿げた頭部をカツラで隠すことに執着する『深紅の愛』の伊達男、妻の衣類を盗んでは身につけるやはり女装趣味の『嘆きの通り』の夫や同作のマスクを外さない小人レスラーの双子のように、リプステインの人物は異装者が目立つ。そこには社会の規範に対する抵抗精神が見て取れるとともに、置かれた状況に満足できず別の何者かになりたいという彼らの渇望も明らかである。彼らの行動はあがきと絶望に満ちている。人間の感情の原点でもある嘆きをこのように強烈に映像化するリプステインの個性は、世界の映画史の中でも稀有のものに感じられる。

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