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「推し社会」
「推しはいる?」
こういう尋ねられ方をする事も多くなった。
私自身、最低限のマナーや社会性はあるので、こう聞かれた時には、コミュニケーションの一環として、好きな漫画のキャラクターや俳優、ミュージシャンなどの名前を挙げて、返答している。
私がアニメや漫画の世界にどっぷり浸かっていた、00年代「推し」に近しい言葉は「萌え」であった。
ただ、「萌え」が可愛いという感情の包括的表現(それでもカバー出来る感情表現が広かった)のレベルに対して「推し」は「好き」などの好意感情の言い換えとして、生まれた気がする(ここで、このようなぼかした表現に留めたのは、私の意見は、はっきりとした学術的根拠に乏しい、エッセイめいた本文にとって、せめての言い訳である)
好きすぎることを「限界」と呼んだり、本来は相撲の世界の言葉で、真剣勝負を意味する「ガチンコ」という言葉を使用した「ガチ勢」など、何かを突き詰めて、好きになることが、どこか一種、極端であることを求められているのに対して「推し」は非常に使いやすい言葉だ。
前述したように、好意表現に+αを意味し、「推せる」範囲も広くカバーした、現代の便利語とでもいうべき、存在だからである。
「好き」に潜む、なんとなしの気恥ずかしさも「推し」は取り払ってくれる。なぜなら、「推し」は「好き」と≠であっても、=ではないからだ。
が、故にその背後に潜む「好意」の感情に対して、無頓着なままに「推し」という言葉はどんどんと使用する世代、使用される領域が広がっていくのだ。
「みんな好き・みんな嫌い社会」
個人的な話となり、恐縮ではあるが、私自身は身内や親しい友人間のラフな会話以外では、簡単に「好き」という言葉を使用しないようにしている。
自分の中で「好き」に分類される人物や事物は常に、頭の中で整理するように心掛けている。
これは、簡単に「好き」になったり、その逆に簡単に「嫌い」になるということは、その対象人物や創作物に対して、失礼な事だと個人的に考えるからだ。
つまり、自分の中で「好き」という感情を公表できるハードルを限りなく上げている状態にし、アウトプットに臨んでいるのだ。
私は別に、自身の姿勢をみんなに見習って欲しいわけではないし、そういう行為をわざわざ真似して、ストレスを溜める必要もない。
あくまでも、前段で述べた行為は、私的な自戒でしかない。
ただ、あまりにも簡単に人が色々なものを「推し」すぎているように私の目に映った結果、自分の中で上記のようなルールを作ったのも事実だ。
「推し」と「好き」が違うということは前述した通りである。また、その背後には、無頓着や無意識の「好き」が潜んでいることも指摘した。「推し」はその言葉がカバーする意味合いが広い為、気楽かつ正確性にこだわらずとも、日常生活での一般使用が可能だ。
その結果「推す」も「推さない」も使用が容易な主観感情となってしまい、さらに突っ込んで表現すると、みんな「好き」だし、みんな「嫌い」ということを日常からネットの世界まで広げて表明するようになった。
元々、人は(演劇・音楽・お笑いなど)芸事をして、生計を立てている芸能従事者を、テレビの誕生以降は特に、何か消費するかのように楽しみ、そして、忘れていく。という、サイクルに飲み込まれやすい。
「推し」が生まれる以前より、「推し」という言葉を迎え入れる土壌は十分に整っていた。
自由な市場と公正な競争が約束された、資本主義社会では、新しい人気者が生まれ、人気がなくなった存在は次第にシステムの恩恵を受けられなくなるという、スキームは正しいと肯定されるべきなのだ。
しかし、どこか、心の中に腑に落ちない感情が生まれる易い、システムでもある。
さらに、YouTubeの世界的な人気拡大と、それに伴い生まれたYouTuberやVtuberという新たな芸能従事者の存在により「推せる」範囲は広がり、「好き」や「嫌い」を瞬時にコメント欄やSNSで表明できるようになった。
みんな「好き」みんな「嫌い」社会の誕生である。
「推し以外の言葉で好意を表現しませんか?」
さて、ここまで「推し」という言葉に対する、私個人の私見を綴ってきたのだが、そこに含まれる利便性の高さは、ここまで述べた通りだ。
現状は、流行り言葉なので、その後、更に有用性が高く、感情を伝えやすい言葉に(萌えのように)取って代わられる可能性と、このまま一般的な日本語として、定着する場合の両方の可能性がある。
だが、私自身は(ここまで読んで頂いてくださった読者の皆様には想定済みだろうが)「推し」という言葉と距離を取りたい人間である。
しかし、一度生まれた言葉を殊更に敵視したり、「推し」という言葉が生まれた社会を断罪するつもりは毛頭ない。
ただ、違和感を表明し、自己でその違和感にどのようにして、対処するかを書くつもりである。
では、その対処法とは何かというかと、言い換えである。
「推し」ではなく、「尊敬」「敬愛」といった少しお堅い言葉に言い換えてしまうのである。
お堅い言葉を使い、好意を表現するという事は、その好意を持つ人や事物に関しても、堅実なイメージを植え付けるという行為でもある。
ライトな好意を潜ませない。という、表現に於ける防御策を自己の中に持つのである。さらに、前述した「好き」という言葉を簡単に使わないという言葉も併せて、実践する。
例えば、私は『鬼滅の刃』という作品に登場する、煉獄杏寿郎というキャラクターを「尊敬」している。
なぜならば、彼は明るく快活な、本来の日本人が持っていた陽気さと、現代の日本人からは失われてしまった、自己の矜持に基づいた武士道を貫くための、強靭な精神力がある[1]
その、思想に基づいた、言行の結果により生まれた、彼の生きざま・死にざま。その両方があまりにも、感動的で忘れられないから、私は彼を「尊敬」しているのである。
どうだろう?比較的、簡単な説明にはなってしまったが、私が煉獄さんに対して「尊敬」の感情を抱いていることはなんとか、伝わったのではないだろうか?
何もここまで、自己の中で好意の言葉を練りこめというわけではないが、一度立ち止まってみて、それは「推し」に留まるものか。それとも、「尊敬」や「敬愛」に言い換えや昇華可能かどうか、考えてみても良いのではないだろうか?
「尊敬」や「敬愛」に値する人や事物は、簡単には「嫌い」になれないはずである。
「終わりに」
言葉が軽くなった。
というのは、今に始まったことではなく、社会の中で意識的に言葉を捉えてきた人たち(例えば文学者や批評家など)にとって、ずっと悩みの種だったのだろう。
しかし、硬く、重々しい言葉を市井の人々に強制する事は出来ないし(必要もない)、何より、そんな状況では日常生活をし辛い。
言葉がライトになり、その背景が薄くなるというのはいつの時代も宿命なのであろう。
ただそれを、闇雲に批判しても物事が改善されるかというと、私自身は懐疑的である。それよりも、どこか馴染めない新しい風潮に対し、ささやかな対抗策を個人的にとる方がよっぽど、気が楽なのだ。
「推し」という言葉に対して、どう思うかは、本職の人文学者やどこかの界隈で熱烈に何かを「推し」ている当事者たちの方が、その意味について正確に言語化と表現が可能だろう。
しかし、私自身、技量不足の拙い文章であっても「推し」という言葉論について、何とかして、書きたくなるほど、その言葉には不思議な引力がやどっている。
まだまだ、「推し」という便利な言葉は使われ続けるだろうし、推される領域も広がり続けるだろう。
しかし、ふと「推し」に疲れたり、疑問を抱く瞬間があるかもしれない。
その時に、私の拙文が何か、一つの回答として機能すれば幸いである。
ジョルノ・ジャズ・卓也
参考文献
[1] 吾峠 呼世晴『鬼滅の刃 8』(集英社 2017)
友人でありライターの草野虹氏と「虹卓放談」というPodcastをやっています。よろしければこちらも視聴していただければ幸いです。