誰の言葉を使い、伝えよう
引用できる言葉や場面をいくつ持っているかで、人生の豊かさは変わる、と思う。
何年生きていても、きっと自分の持っている表現の幅には限界がある。そんなときに頼りになるのは、きっとこれまでに読んできた文学や詩などの作品であり、その中の言葉たち。
誰かになにかを伝えたい、でも自分の言葉ではうまく伝えられない。
そんなとき、信頼する文学から言葉を借りてくることで、気持ちや感じたことをそのまま、もしくは自分の感じた以上に、すとんと自分の中に落とし込んだり、相手に渡すことができる。(そして、伝えたときにそれをどこからの引用かわかってくれる人はきっと感性が近いので、いいお友達になれます。。)
たとえば、太宰治の小説「葉」の冒頭に、わたしがずっとお守りのようにして持っていることばがある。
「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」
つらいとき、この文章をいつも思い出す。人を生かすきっかけは、ほんの些細なことだ。
いまの自分にとっての「夏に着る着物」は、いったい何だろう。
さらに人生について深く考え込んでしまったときには、「銀河鉄道の夜」のジョバンニの「ほんとうのさいわいは、一体何だろう」ということばが思い浮かぶし、
ほかにも、雪の日の朝、まだ誰も踏んでいない新雪が目の前に広がっている景色を見た時のうれしさは宮沢賢治の「雪わたり」に描かれていて、冬が近くなると特にこの部分を読み返しては、子供のころに感じた雪のうれしさを胸の中で反芻する。
雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来ているらしいのです(…中略…)いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれが沢山の小さな鏡のようにキラキラキラキラ光るのです。
たくさんの言葉を知っているということは、感性の豊かな先人のフィルターを通して物事を見ることができる、ということだ。
そうすることで、ときには救われたり、心の余裕を持つことができる。いろんな状況を、つらいときは乗り越え、たのしいときにはもっと楽しむために。
もしもいつか自分の言葉も、だれかの救いになることがあったら、いいな。
大事にしている言葉のある人がもしもこのnoteを読んでくださっていたら、それはどんな言葉か、こっそり教えてください。
読んでいただきありがとうございます。 また来てくださるとうれしいです。