お墓はどうする?母の思い出の先に
秋のお彼岸ですね。
「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。
厳しい季節の終わりの目安として、毎年この日を心待ちにしています。
今年も無事に、秋はやってきてくれるでしょうか。
お彼岸(中日)は、昼と夜の長さがほぼ同じ日。
此岸=欲や煩悩にまみれた俗世
彼岸=浄土の世界
この両方が三途の川を挟んで最も近づいて、思いが通じやすくなるので、ご先祖様を供養し、仏教修行で自分自身を見つめ直す時期として定着したのだそうです。
記録では平安時代まで遡るのだとか。
日本の古き良き伝統行事ですね。
そう、お彼岸と言えば、お墓参り。
私も静かに手を合わせてまいりました。
さて、最近「墓じまい」の話題をよく聞きます。
樹木葬や海洋散骨が人気だそうです。
この前、霊園・墓石屋さんが「墓じまい」のCMをやっていて少し驚きました。
私の家族や親戚は、全国でバラバラに住んでいるので、お墓問題は深刻な課題です。
墓地に行けば、継ぐ方がいらっしゃらないのか、荒れ果てた墓石をよく見かけます。うちと同じようなご事情で、お墓をどうしようかと頭を悩ませておられる方が、たくさんいらっしゃるのだろうなと実感します。
昨年ガンで亡くなった私の母は、自分の残り時間がわずかと悟った途端、ものすごい勢いで身の回りを片付け始めました。その最大の難関が遠方にあった実家の「お墓」。
母は、もう自分の後に継ぐ人がいないそのお墓を閉じ、祖父母のお骨は、そこのお寺にお願いして合葬墓に改葬。
お位牌も京都の御本山に納めて、チリひとつ残さず旅立って行きました。
もう、祖父母のお墓参りに行く機会もないのかな、と寂しい気持ちもありますが、荒れ果てて放置されるよりも良いと思っています。
父方のお墓は京都にあって近いので、気軽にお参りに出かけられます。ただし、私は。この後のことを考えたら、すぐに同じ問題に直面することになります。
母は生前、お墓はいらんと常々言っていました。
あんな冷たい石の下で安眠できるかいと。
「まあ、決めるん私らやから」と意地悪を言うと、
秋山雅史さんの「千の風になって」を歌い出す始末。
海洋散骨を望んでいました。
そんな冗談を言い合いながら、元気に暮らしていた頃は良かったのですが、実際に旅立ってしまうと、残された者として、初めてお墓のことを真剣に考えるようになりました。
実は私も母同様に、お墓はいらないなーと思っていました。
でも実際に母の納骨を済ませてこの方、お盆にお彼岸、それ以外にも足繁くお墓に通っています。
母の好きだったお菓子やお花をお供えして、何なら「阿弥陀経」を習得しようとしているぐらいです。
そうして母に会いに行くのが、私の心の支えにもなっています。
これができるのもお墓があるから。
そう思えば、お墓はいらないという思いに、迷いが出てきたのでした。
海洋散骨でも、樹木葬でも、同じように故人を思うことができるのかもしれません。
ただ今は、お骨壷に(ロッカー式なので骨壷ごと安置)母の面影を見ています。いずれ時が経った時、そんな思いも変わっていくのでしょうか。
今の私には分かりません。
私は大学で、古墳時代の勉強をしていました。
墳墓を作って先祖を祀る。
縄文時代から数千年続いてきたこの風習にも、大きな時代の変化が来たんだなと、違う意味でも感慨深く思います。
私が古墳の発掘に出かけるとき、母にはいつも「あんた呪われんで」と言われました。私とお墓の関係は、まだまだ続きそうです。
お母ちゃん、埋めるんやったら呪われへん?
おはぎを食べてから、また考えます。