すごいものはすごい
今日のロザンの楽屋を観て、の話
本編を観てから読んでくださいね。
すごい!とならず、宇治原さんだからねー当たり前だよねーと反応されるのが納得いかない菅さん。の回。
私は、菅さんの考え方好きだなと思ったし、私の考え方となんとなく似てる気もしたので、noteに書くことにしました。
MISIAさんには凄いなーとなるのに、宇治原さんにはなってくれない、というような話だと解釈しましたが、それは頑張ったら届きそうと思うか否か、の問題だと思いました。
MISIAさんの歌は、どう頑張ってもトレーニングしても真似できない気がする。だから凄い。
宇治原さんは、頑張ったら同レベルまでいける気がする。だから凄くない。
そういう思考なのかな、と。
努力でどうにかなりそうなことは、出来てるひとに「当たり前」と言い、努力でどうにもどきなさそうなことは、凄いと言える。
嫉妬がないから?劣等感を覚えないから?
「(わたしだってそんだけ勉強して新聞読んで、やってたら、できてて)当たり前」
なんだか、そんな感じで思考停止しているように感じます。
まず努力を続けることができるか
新聞を読み続けることができるか
などなど、宇治原さんのマニアではないので、どれだけのことを日常的にやってらっしゃる方か、詳しくは存じ上げないけれど、YouTube観ていれば、受け答えだったり単語のチョイスだったりで、沢山の量のインプットを続けていて、凄い方だなと感じられるのだけれど。
本当に、自分だったらできるのか?の想像力が欠如してる人が多いような。
当たり前と思われるくらいの方は皆さま等しく「凄い」のにね。
圧倒的な実力により「凄い」と言われてるんだろうMISIAさんの場合も少し。
才能がすごい、もよく聞く言葉ですよね。
頭の出来が違う
天才だから
神様にもらった才能
などなどなど
あまり好きではない言葉です。
そう考えてるのが透けて見える人も苦手。
私自身に言われることはほぼないですが、他人に言ってるのも少し不快になります。
元々生まれ持った何か、もあると思いますが、本人のやる気だったり努力だったり、そういうものをすべて追いやった言葉に聞こえるからです。
実体験として小さい出来事をひとつ。
学生時代テストでいつも90点台をとれる教科がありました。100点のときもあって、今でも得意科目です。
一番好きな教科でもあったので、夢中で楽しく勉強していて、テストで初めて90点台取ったとき、親も周りもすごいね、頑張ったね!と言ってくれ、嬉しかったことを覚えています。
その後、同じように頑張って勉強して何回か取るうちに、反応もなくなり、それが当たり前の空気になり、誰も私の努力については気にしなくなり、一回80点台を取ったときは、勉強をサボったのか、やる気が足りない、と教師にも親にも責められました。
(今思い返せば、8割取っとるんやから十分でしょ!褒めなくていいけど責めるのは違くないか?)
同じように頑張ったつもりだけど、足りなかったのか、慢心してたのかと当時すごく落ち込んで、反省して、次回からは更に勉強して高得点を維持しました。半ば義務感になっていました。
今では、得意科目だけれど「嫌い」な科目です。
同じようなことが、「才能」とか「天才」という言葉でも起こる気がしていて、極力使わないように意識しています。
その人を否定してる気になるから。
周りに流されず影響されず、好きを貫ける人もいるけれど、そうじゃない人もいます。
褒められたら自信に繋がるし、自己肯定感もあがるし、もっと頑張ろうと思える。私は思える。
周りが勝手に、人の努力に慣れないでよ!と思います。
その人の凄さを「当たり前」で片付けてしまうのは、その人へのリスペクトが感じられないし、劣等感に蓋をしてる気がします。
自分には真似できないな、すごいな、と思う気持ちに蓋をして、できない理由や努力できない理由を考えないようにして、頭空っぽ人間として振舞ってる気がします。
自分には今現在できないことを誰かができるなら、心の中で思うだけではなく、いつでも何回でも、すごいね、と言える人でありたい私です。
おわり。
今、ばーっと書いてしまっていたので冒頭から読み返したけれど、話の順がめちゃくちゃで、まとまりの無い文章になってました。
でもスマホで推敲するの面倒なのでこのままあげます。
すみません。
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