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21.祖母の他界。

皆さんお久しぶりです。
久々にまとまった時間ができたので、今回の出来事で思ったことを書いてみようと思います。

2024年7月21日 1時40分。
祖母が急逝した。89歳であった。
祖母は私が物心着いた頃には、既に病気がちであったように思う。
祖母の家系はよく女性が早くに亡くなる家系であった。祖母の母も妹も3、40代で亡くなっていた。
それもあってか、食事にはかなり気を遣っていて添加物の入った食品は口にしないという徹底振りだったと思う。
ただビールは大好きで、野菜たっぷりの健康的な料理をビールのミニ缶を飲みながら作っていたのが印象的であった。

祖父母の家はかなり田舎の農村部にあり、普段なかなか会いに行くことはできなかった。
夏休みに久しぶりに会いに行き、1週間くらい滞在するのが毎年の楽しみだった。
田舎道を抜けると目の前が開け、遠くに霧島連山が見える。青空を堰き止めるように聳え立ち、青々と茂る田畑との太い境界線のように見えるその景色がとても好きだった。
他にも近くの用水路ではかなく飛び交う蛍や、街灯がほぼない暗闇の世界から見上げた星空に輝く北斗七星など、今でも忘れられない光景である。

日中は祖父とプールに行き、土を掘ってはカブトムシの幼虫を探した。
汗だくになって帰ると、祖母が料理の手を止め玄関まで迎えに来てくれた。
祖父と子どもたちでお風呂からあがると、台所には既にたくさんの手料理が出来上がっており、それを全員で食卓に運んだ。
祖母に思いを馳せると、幼い頃の楽しい記憶が鮮明に思い出される。

話は戻るが、病気がちな祖母は心筋梗塞で倒れたり、心臓にステントを何本も入れたり、人工股関節の手術を受けたりと体調の面ではかなり苦労したと思う。
早くに亡くなった妹の娘も、祖母の娘、つまり私のおばも、くも膜下出血や風呂場で心肺停止で見つかるという不審死で若くして亡くなった。
そのような家系にも関わらず、祖母は幾度の困難を乗り越えてきたため「なんだかんた長生きするのだろうな」と心のどこかで思っていた。

なので祖母の死の知らせを聞いた時は、本当に信じられないといった感じですぐには頭が追いつかなかった。
肺炎で入院したらしいが、医師からも「ゆっくり治していきましょう」という話があった日の深夜、看護師と言葉を交わした5分後に祖母の病室から異常を知らせるアラートが鳴ったらしい。
その時には既に心肺停止だったようだ。

葬儀場で祖母の遺体と対面しても、棺には祖母によく似た人形が横たわっているようにしか思えなかった。
しかし、式の最後に祖母に花を手向ける時に、喪主の父に司会の方が「最後のお別れですからお母様に何か言葉をかけてください」と言われた時、泣き崩れ言葉を詰まらせる父の姿を見た瞬間、一気に現実味が湧いてきた。
「本当に祖母は死んだんだ。もう会えないんだ」と思うと悲しさが込み上げてくるのと同時に、「私にとって、大切な人たちが他にも亡くなったら」ということを想像してしまってとても苦しくなった。

大学入学を機に地元を離れ、祖母が施設に入ったこともあり、ここ数年は祖母に会うのも年に一度あるかないかになっていた。
祖母の耳が遠くなり認知症もひどくなったことで、なかなか会話が成立せず電話の回数もめっきり減っていた。
もっと祖母と関わりを持っていれば。
祖母に感謝の気持ちを伝えられずにお別れをせずに済んだかもしれない。

帰りの飛行機の中、気持ちを整理しようとメモに文章を書き連ねるが、楽しかった思い出が甦り、祖母への感謝と後悔の念が頭の中を錯綜している。
空港のエレベーターを降りながら、視野に映るこの人々もそれぞれ大切な人の死を乗り越えて人生を歩んでいるのだろうかと物思いに耽る。

明日からの日常に向けて、少しずつ心を落ち着けていけるよう、今日は自分の様々な感情に思う存分目を向けようと思う。

今回は思いのままに文章を書いてしまい、まとまりのない文章ですみません。
暑い日が続いております。
皆さん、体調には十分気をつけて過ごしてくださいね。

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