また歩きだせる場所 20240411
たまにはいつもと全く違う、午後4時にPCの前に座ってみました。
すこしだけ日が傾いて、食堂にはやわらかい光が差し込んでいます。
そういえば、一昨日泊ってくれた韓国のお客さんは、無事空港についたかな。
「ワコサン、光ガキレイデス」と言って、カラフルでたくさん写真を撮っていった彼。
宿を出発する時に、行ってきますと言いたいところを「イタダキマス」と言ってしまって恥ずかしそうに笑っていた。
いいんだよ、いただきますでもいいんだよ。
わたし達には、ちゃんと伝わってるから。
いつも誰かを送り出すときには、感謝と安心とエールと、それからほんの少しの名残り惜しさを伴います。
もしかしたらこれっきりかもしれない。
でも、もしかしたらどこかで会えるかもしれない。
未来の可能性は無限にひらかれているように見えて、その時間も空間も、ほんの僅かな隙間でしかないことを、わたしは知っています。
だからこそ、この一瞬の通り過ぎてゆく時間に思いっきり力を注ぎます。
注ぎすぎて、宿泊してくれたお客さんのことを、わたしはなかなか忘れられない。
あのひとは元気かな、と思い出す顔が多いことは、そしてそんな便りを送る人が多いことは、とても幸せなことだとおもっています。
いつかお客さんが歩いてきた道を振り返るとき、旅の途中に、そうだ、あんな宿があったよね、って思い出してくれたら、それ以上に嬉しいことってないね、って、夫とよく話します。
お腹いっぱい食べて、ぐっすり眠って、また歩き出せる場所が、この瀬戸内にあることを、ぼんやりとでも、いつか懐かしく思い出してもらえたらいいなぁとおもいます。
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