トレインは恋に落ちる音【第11回ワンライ】

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「今日もお疲れ様ー」
「……ホントだよ」
「アハハ……」
 最近、残業に残業を重ねて行っていた仕事も一段落し、終電を逃すまいと慌てて乗った電車の中で、疲れを吐き出すように誰からともなく息をついた。山田さんが労いの言葉を掛けると、吉岡さんが悪態をつくようにふてぶてしく返す。俺が苦笑いで返すと、山田さんがクスクスとおかしそうに笑い、吉岡さんはキツイ目つきをより一層悪人面にした。
「睨むの止めてくださいよ。目つき悪いんだから」
「んだと!?それが先輩に対する態度か?あ?指導してやろうか?」
「してるじゃん、いつも」
山田さんは、新入社員である俺の指導係も兼ねている。仕事も出来るし、良く気付くし、そういうところに吉岡さんも惹かれたのだと思うが、如何せんガラが悪い。いつだったか、昔の武勇伝を聞き出そうとしたら、そんなのないと怒鳴られ、頭を叩かれた。あの反応は絶対に何かあると思う。今度、吉岡さんがいないときに聞いてみよう。
「おい、聞いてんのか!」
「き、聞いてますよ!聞いてます!だから殴らないで!」
「もう!やめなって!残業から解放されてテンションが上がるのも分かるけど……」
吉岡さんに呆れた顔をされて、罰が悪くなったのか、むすっとした顔で黙った山田さんが面白くて、思わず笑うと、人が殺せそうな目つきで睨まれた。怖い。しかし、手を出してこないところを見ると、山田さんは本当に吉岡さんに弱いんだなあと、また顔がにやけてしまう。山田さんから吉岡さんを奪うだなんてこと絶対にしないのに、俺から守るように足を一歩踏み出すのも、またおかしい。山田さんはドア横の手すりにつかまっていて、吉岡さんと俺はそのすぐ近くの座席の手すりにつかまっていたのだが、俺は手すりから手を離して一歩下がった。山田さんは吉岡さん相手となると、心の余裕が無くなる。2人とも確かに大人で、公然と付き合っているのに、垣間見えるやりとりが、中高生のそれで、余りのもどかしさに、上司も、先輩たちの同僚も、俺たち後輩も、身悶えているのを、彼らは知らないのだろう。
「……何にやけてんだよ、気色悪い」
「いや、何でも無いです、よっ!?」
 明日、同僚と食べるお昼のネタにしよう。もちろん2人のいないところで。
 そう考えていたのが、罰に当たったのか。電車が急にガタンと音を立てて大きく揺れた。先輩たち2人は、掴まっていた手すりに身を預け、何とか踏ん張ったようだが、頼るものが何も無かった俺は、バランスを崩し、後ろへたたらを踏んだ。
 ああ、電車内でコケるなんて、凄く、凄くダサい。
俺もきっと明日のお昼には先輩たち、いや、吉岡さんはそういう人じゃないから、山田さんの話のネタになるんだろうなあ、などと頭はいやに冷静になりながら――現実逃避をしている時点でちっとも冷静では無いのだが――背中に来るだろう衝撃に身構えて目を瞑った。
 衝撃は来た。確かに来たのだが、思っていたものより大分小さい。恐る恐る目を開けると、俺を支えようとしたのか、空中に手を伸ばしたまま目を見開いている山田さんと、口に手を当てて驚いた様子の吉岡さんが見えた。目線的に俺は立っているらしい。そう、意識したら、足裏は確かに床を捉えているのが分かった。背中の衝撃は、小さな面積で起こった。それでいて痛みを伴わず、衝撃を吸収するように、一旦引いて、掌で押し返すような……
 掌で?
先輩たちを見ると、2人の四本の腕はいずれも俺を支えてはいなかった。
 じゃあ、誰が……?
よく見ると、2人の目線は俺では無く、俺の少し右側を見ているような気がする。
「あの、大丈夫ですか?」
その右側から、鈴の鳴るような、それでいて凛とした声が響き、思わず飛びのく。先輩たちが立っているドアとは通路を挟んで反対側のドア横の座席に座っている女性が、身を乗り出していた。左手は今まで俺の背中を支えていたらしい形を保ったままで、右手にはカバーの掛かった文庫本があるから、俺を支える直前まで、読んでいたのだろう。余りにもびっくりして、彼女を見つめたまま俺は何も言うことが出来なかった。
 彼女はゆったりとした動作で、元の位置に座りなおす。彼女の赤く形の良い唇が動く。
「すみません。咄嗟に手が出てしまいました。痴漢とか……この場合は痴女ですか?そういう類ではありませんので、ご安心ください。……ああ、御怪我はありませんか?」
先ほど背中に掛けられた、鈴の鳴るような凛とした、決して大きな声では無いのに、その場に響く芯の通った声で、淡々と落ち着いたトーンで流れるように言われ、俺は無様にもコクコクと頷くことしか出来なかった。彼女の表情、声、所作、何もかもが事務的で、怒っているのではないかと思った俺は、恐る恐る顔を上げた。彼女と目が合う。
「そう……。それは良かった」
彼女は、そういって微笑んだ。今までの無表情が嘘のように柔らかく。声も、いきなり色が付いたように、柔らかく暖かいものへと変化した。黒くて美しい長髪も、陶磁器のような肌の美しさも、儚さを感じさせる線の細さも、俺を左手一本で支えたとはとても思えなくて、思わず見とれてしまった。まるで絵画のようだ。彼女の居る場所だけ、時が止まったように見えた。女子大生だろうか?にしては遅い時間の電車に乗っているし、とても落ち着いた大人な雰囲気――社会人の俺より落ち着いているかもしれない――からは、学生のような幼い雰囲気は感じられなくて、そのアンバランスさが、彼女を一層幻想的にしていた。
「おい、ホントに大丈夫か?お前」
焦ったような山田さんの声と、脇腹を小突かれた衝撃で我に返る。どうやら俺は恩人に対してまじまじと見つめるという粗相をやらかしていたらしい。慌てて頭を下げる。
「あ、あ、あの!ありがとうございました!」
慌て過ぎたせいで、盛大にどもる。余りの恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じた。クスクスと軽やかな笑い声が頭上から聞こえて、思わず顔を上げる。彼女が口に手を当てて、楽しそうに笑っていた。
「どういたしまして」
 ああ、神様。23歳社会人一年目にして、どうやら俺は。
 名前も何も知らない相手に、一目惚れをしてしまったようです。
 ……どうしたらいいですか?

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