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デザインにたどり着くまでの駄文

注意散漫なのか。

中学校へ行って、生徒100人にデザインのことを話してください、というお題をいただいた。私はお題を与えられると、目の前で「パン!」と手を叩かれるまでずーっとひたすら楽しむので始末が悪い。

味がなくなってしまったガムをずっとくちゃくちゃと噛み続ける人みたいに、あれこれと妄想して楽しんで、つくづく燃費が良い人だと思うし、小さな幸福を見つけるのが上手い人だといえばそうなる。

で、良い写真って、どんな写真だろう。
はい、出た。お題を与えられてあれこれ考えている最中に唐突にこんな疑問が湧き起こってきて、そこから離れられなくなる。

綺麗にバッチリ決まってる写真が良い写真かって言われたら、私はよくわからない。

ピンが甘くても、ボケていても、ブレていても、歪んでいても、なんか好きだなぁって写真もあるし、荒れていてもざらついていても特別なメッセージがなくても、良いなぁと思う写真もある。

100人いれば、100通りの「好き」とか「良い」があるので、結局のところ、自分が良いと思う傾向を知っていくのが近道なのかな。

神島高校の写真部の部活動にいつぞやピンク頭で参加したことがあった。実は、恵納先生が一体どんなふうに写真を教えているのかを知りたかった、と言うのが理由で。最初はデザインの話でも、と先生から提案いただいたけれど、丁寧にお断りした。私は、デザインをどのようにして教えて良いのかよくわからない。

なぜならば、あらゆるものが何でも良いように思えてしまうのだ。でも、講評ができる人には「これはダメ」みたいなのがわかるそうで。

そんな私はいまだに「デッサンが歪んでいる」「レイアウトが整っていない」などという指摘をとても受けるんです。指摘を受けるとちょっと萎縮してしまい、素直に従います。デザイナーなのにこの指摘を受けながらも活動している私はメンタルが強いというか。いやそもそも需要があるからこうやってご飯を食べているわけだし。

私は、ある撮影会に参加して、街の中で100枚以上写真を撮り、それを講評してもらったことがあった。

客観的に見て、何が撮りたいのかさっぱり伝わってこないなぁと思っていた駄作の中で、唯一講師が「良いね」と言ってくれたのが、この写真だ。

確かにこの写真を撮る時、「面白いものを見つけた」と思ったので撮った。神社の池に、鳥よけのネットを張っている、ただそれだけの場面が「面白いもの」「趣がある」と感じたのだ。

ネットの間に反射する雲や空、その中を自由に泳ぐ金魚と、揺れ動く水面、そしてふらふらと浮き漂う色褪せた花。このレイヤーが複雑で面白い、と感じたのは事実だ。

また、カメラを構えて覗く私の姿が、どのように体をよじっても映り込んでしまう。さまざまな重なりの中に生まれている世界を撮りたいと思った。

きっと、腕のある人ならば、私が言わんとしているものを的確に画角に収めることができるんだろう。

商業写真とはまた違う写真の世界を知ってみたいし、商業に洗脳されすぎた頭を柔らかくしたい。

ところが私がデザインの何たるかを教えようとしたら、「カメラを携帯してください」ということになるのだ。

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