僕らの暮らしと静寂の世界
僕たち夫婦は、静かな場所に暮らしている。
ギリギリ東京都民、都心へのベッドタウン、市内のはじっこ。大きな道路から離れたところにある小さなアパートが僕たちの住まいだ。車の交通は少なく、近隣には住宅と小さな畑と開発を待つ空き地があるくらい。毎日、鳥のさえずりが聞こえ、夏になると虫の声をBGMに生活を送っている。
これまで暮らしてきた家ではずっと音に悩まされてきた。埼玉で住んでいたメゾネットの向かい側には改造車を取り扱う車工場があり、朝から猛烈なエンジン音を響かせていた。
その後、東京へ引っ越して暮らしたマンションは鉄筋コンクリートの作りで遮音性が高く、外部からの音に悩まされることも少なくなった。マンション凄いと感動をした。
が、僕たちが暮らし始めて数日後に隣人が入居してくると状況は一変した。夜中まで大きな物音がし、壁越しにゲームの重低音が響いてくる。ベランダからは外に出された小型犬の鳴き声、タバコの臭いと共に流れてくる大きな話し声、その話し方や物騒な内容から反社?と浮かんだ疑念は僕たちが退去するまで頭から離れることはなかった。ある時は、大音量のEDMと共に騒ぐ声が聞こえてきて「ウェーイ!」という声を実際に人間が発するのを初めて聞いたと妻は言った。
そんな生活を数年続けた後に、僕たちは同市内の建物に引っ越しをした。長年暮らした部屋は窓が大きく開放感があり、気に入っていたので悔しさもあったが、夜中に耳栓を使わないと眠れず精神的ダメージを蓄積させていた僕らはそのマンションを去らざるを得なかった。
引っ越し先の建物は木造のメゾネットタイプ。これまでのストレスから解放される!と僕たちの胸は希望に踊っていた。その物件は二世帯のみが暮らせる作りになっており、隣人のファミリーはとても感じが良く僕たちは安心した。
ただ唯一気になったのは、坂道沿いに建てられたその家の横を走る道路はバスの経路だったことだ。坂道の傾斜がきついためバスは思い切りアクセルをふかし、もの凄い音を立てて登っていく。また、近くには開発中の広大な土地があり、そこへ向かう大型トラックも同じようにもの凄い音を立てて坂道を登っていく。が、これまでのストレスに比べれば問題なし、と僕は聞いて聞かぬふりをした。
僕たちが暮らし始めてしばらくすると、隣の感じの良いファミリーは引っ越して行った。次に入居したのは出産を控える奥さんと旦那さんの夫婦だった。引っ越し当日は、作業を手伝うために一緒に来ていた奥さんのご両親と共に挨拶に来てくれて、そのとても明るい人柄に僕たちは安心した。
ある晩、トイレに入ると壁越しに「ぅおえぇぇぇぇーっっ!」というとても大きな声が響いてきた。その音量に驚いたものの、隣の奥さんは妊娠していたし大変なんだな、と思った。えずく声は毎晩続いた。一、二ヶ月ほど経つと隣の奥さんは里帰り出産のために帰省をした。
その晩、部屋でゆっくりしていると「ぅおえぇぇぇぇーっっ!」と、あの声が隣から響いてきた。声の主は旦那さんだった。その日からも相変わらず、えずき声は毎晩続き、心なしかボリュームアップした「ぅおえぇぇぇぇーっっ!」は僕たちの部屋のリビングにまで響き渡った。隣の奥さんは無事に出産を終えて帰ってきた。その後も「ぅおえぇぇぇぇーっっ!」は止まらなかった。
日中は坂道からの大きなエンジン音。夜は隣部屋からのえずき音。それらと共に生活していた折にそれは起こった。
梅雨の時期になると玄関前の床や壁に大量のヤスデが発生した。開発地で無理矢理掘り起こした土地だからか、長雨でジメジメした気候のせいなのか、原因は分からないがヤスデの発生は毎日続いた。できる限りの対策をしたものの彼らの勢いを止めるには至らず、ヤスデは小さな隙間から部屋の中へ侵入してきた。
そんな中、物件の更新日がやってきて、僕たちにはもうその建物で暮らす選択はなく、今暮らしているアパートへ引っ越しをした。
僕たち夫婦は、静かな場所に暮らしている。
大きな道路から離れたところにある小さなアパートに向かう途中には、新興住宅地があり同じ形をした建売の一軒家がたくさん建っている。そこに暮らすのは、僕たち夫婦と近い年齢のファミリー。新興住宅地の中を歩くと、楽しそうな子供たちの声が響いている。玄関先にはベンツを中心に大きな車が一台か二台は停まっている。ギリギリとはいえここは東京都。東京で一軒家を買うというのはそういうことなんだろう。
サイレントジェラシー
ドンチューリーミアロン
僕らの部屋の窓からは、建設中の建売物件がたくさん見える。いずれそこにも家族が暮らすのだろう。この静かな場所からも静寂は失われる。子供たちの声、大型車のエンジン音、庭先のBBQで賑わう笑い声。
ざわつく音は耳からだけでなく、自身の内面からも聞こえてくる。比較は無限の底なし沼。今日を生きるために静けさを。僕の人生に静けさを。
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