見出し画像

「いたみをはかる」に向けて(後編):漢字に羽化するまえのことば

今日も今日とて書きはじめるにあたって、昨日の記事(前編)を読み返してみたりすると、大事なことを書き忘れていることに気づきます。読んでくださった方もそう思ったかもしれません。

……パサージュ?

パサージュ、ベンヤミンの著作のタイトルを飾るその言葉、しかしそれが何であるか説明されないまま、貝殻の潮音からパサージュが導かれると、さながら夢の構造に似ているだの、裏地にアラベスク模様をあしらった灰色の布だのと言われ、挙句の果て、そこは「われわれの両親の、そして祖父母の生をいまいちど夢のように生きている建築物」、動物の生をなぞる胎内の生にすらなぞらえられる……いったい全体、謎めいた空間が皆さんの脳裏をよぎったかもしれません。(いっそ、そのままにしておいたほうが面白いかもしれませんが……)

パサージュ、それは19世紀パリに生まれた商業空間、ガラスのアーケードに覆われた通路に高級商店が立ち並び、人々がそこでウィンドウ・ショッピングを愉しむところを指しています。アーケード街のことと考えていただければいいでしょう(なぜそれが胎内の生なの?……と思ったら、是非『パサージュ論』を紐解いてみてください)。

パサージュ、passage…… パッセージと聞くと、少し耳馴染みがあるかもしれません。歌の一節、映画のワンシーン、そしてテクストのパッセージ。Paris de la Peineで収集した断片やフラグメントも、ある種の「パサージュ」に他なりません。元をたどれば、パスすること、通過することの意ですから、それが「通路」「アーケード街」となるのはもちろん、「抜け道」「渡航(渡賃)」「横断」「移行」「訪問」……実に広がりのある言葉なわけです。両親、祖父母の生、あるいは動物の生をなぞる移行や変容、それがアーケードの影をなしている。パサージュを歩くと初めてふれるもの珍しい商品に魅惑される、しかしなぜかしら、自らの記憶よりも古い記憶、ありもしないはずのノスタルジーにも繋がれている……


ウンブラル、閾……

「すでになく、いまだないものの個人的な閾。しかしまた、人類の歴史を横切りつつある突然変異の全世界的な閾。謎めいて。」
ビフォは、老年は脆弱さや認知能力の減退のみではなく、「ウンブラルの彼方に待ち受けている世界の不確実性に向けた特有の視点や鋭いまなざし」をもたらすと説く。それが可能になるのは、老齢に至ることによってひとが「すでになく、いまだない」という宙吊りの時間を間近に経験するに至るからだろう。そのような立場に身を置く者は、過去の世界との連続性が断ち切られてしまうことを覚悟している。それゆえにビフォは、都市封鎖ののち、かつてあった普通の生活に戻れるに違いないと考えている人びとを念頭に、「普通さの崩壊の果てに、いつか普通さが戻ってくるだろうと、彼らは本当に考えているのか」と問いかける。かつて普通であったものがそのままのかたちで戻って来ることはないー
「ウンブラルの彼方にあるのは発見と可能性(possibility)の時間である。これはインターヴァルでも、一時休止でも、中断でもない。それは、どう言えばいいだろう、括弧に入れるべき挿話ではない。それは突然変異である。」

「ウンブラル ー 歴史の閾としての謎」(『UP』572号(2020年6月号)、東京大学出版会、2020年、36〜43頁

終わりの見えない自己隔離の生活、その最中に田中先生が発表された「ウンブラル ー 歴史の閾としての謎」(『UP』572号(2020年6月号)、東京大学出版会、2020年、36〜43頁)からの引用です。括弧にくくられているのは、文中に登場するビフォという哲学者が記した「都市封鎖下の生活」の一節で、これもまたアクチュアルなテクストです。

ウンブラル(umbral)……はからずもビフォが魅了され、繰り返し続けるこの言葉はスペイン語で「閾」を意味する。そこにはラテン語のウンブラ(umbra)「影」や「幽霊」のニュアンスも響いている……まさに幽霊のような言葉に憑かれたビフォは、都市の日常が壊れてしまったこの世界において、引き裂かれた予感、「すでにないもの」と「いまだないもの」をひとつに感じながら、まだ誰も見たことのない「閾」を跨ごうとする、その閾の先には自己の、あるいは世界の突然変異が待っている……とするならば、突然変異の担い手である謎めいた言葉「ウンブラル」は、ウイルスに他ならないのではないか。

これ以上の紹介はここでは控えますが(是非『UP』をお手に取って読んでみて下さい)、もうお分かりのとおり、ウンブラルがひとつのパサージュであることは間違いないでしょう。だからといって、ただの焼き直しではない(コロナとペストが同じではないように)。日常が壊れていくとき、はからずも訪れるはかりがたい言葉、それでもってのみ、いまだ言葉にならない「いたみ」ははかられうる。いたみをはかりながら、私たちは閾をまたいで、突然変異への通路を進むことになる。ベンヤミンは、原初の生物から人間への変容をなぞるかのように、パサージュにおいて19世紀という突然変異をなぞっていった。しかしその変異に身を委ねるものは、いまある人間のかたちに留まるのではなく、不可避に閾を跨いでいかざるをえない。

「いたみをはかる」というイベントを企画するにあたって、それを平仮名にせざるを得なかったことは、こうして東京に生きながら感じる言葉にならない「いたみ」、まだ漢字に羽化していない「いたみ」の胎内過程のようなものを表してみたかったからなのだと、こうして書きながら感じています。そして、まだ見ぬ閾を跨いで「いたみ」の突然変異を目の当たりにすること、そのあたらしい漢字(感じ)を手にすること、そのためには私たちなりの「パサージュ」や「ウンブラル」、はかられざる言葉を見つけなければならない。


……読み始めたときよりずっともやもやする……そう思われるかもしれません(意図して煙に巻こうとしたわけではないのですが……申し訳ありません)。しかしそんな方にこそ、明日のイベントに来ていただきたいのです。もやもやが雲散霧消するということは決してないでしょう。しかしその「いたみ」に近づくためのはじめの一歩となることを願って。

もう一度、参加フォームをはりますのでぜひご登録を!お会いできるのを心より楽しみにしております。

2020年7月17日公開記事

いいなと思ったら応援しよう!