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西部戦線異状なし? ある文学部生の欧州巡遊記──鴎外先生、こんにちは編

YOU CAN (NOT) SPEAK──DU SPRICHST (K)EIN DEUTSCH

 かつて森鴎外が医学徒として三年に渡るドイツ留学を経験したことは、彼のドイツ三部作──舞姫、うたかたの記、文づかひ──の膾炙も相まって、読者諸氏も承知の通りだろう。彼は留学の様子を『独逸日記』に著しているが、そこには一ヶ月半の航海を経てようやくドイツへ辿り着いた鴎外が、馴染みのドイツ語を耳にして安堵する、という一場面がある。
 私とて大学入学時からドイツ語を勉強してきた身ゆえ、かつての鴎外先生もかくやと思われる安堵につつまれるだろう、と思いきや、そんなことはなかった。というかそんなはずはなかった。単位得ばやの一心で浅学に浅学を重ね、クラスの中では逆主席にかぎりなく近い、大穴の深淵に刻まれた留年の二文字をおそるおそる見下ろす崖っぷちにいたのを、教授のお情けでなんとか拾い上げられた負け犬の身、私などでは、帝大医学部飛び級合格という雲ほど高い志を持つ鴎外先生に敵うはずもない。空港に降り立つや否や、自分の独語力がいかに低いかを思い知らされ、既に帰りたくなっていた私などでは……。

オーガイ! オーガイ!

 前述の通りのドイツ語力を有する私は、無数に貼られた街頭広告の意味するところすら正確には判らない。それはベルリン中心部の小島、博物館島においても同じであった。ペルガモン博物館やベルリン大聖堂といった荘厳な建物群とドイツ語による喧騒に嫌気が差し、休憩がてらにその周縁を散歩していたときだった。

Mori Ogai Gedenkstätte

 突如、私の視界を見慣れた二文字が覆った。「鴎外」と、その建物の外壁には堂々たる筆致でそう書かれていた。思わず駆け寄る。入口付近にはドイツ語の他に日本語での紹介文も記載されており、それによればどうやらここは「ベルリン森鴎外記念館」であるのらしかった。これは見学したいぞ、と扉を開けてみるも、まるで微動だにしない。管理人が外出しているのかと自分を納得させて辺りを散歩し、再び戻ったところで、ここが一般住宅のため日本のマンション等と同じく管理人を呼び出す必要があると気づいた。住人リストを覗いてみると、なるほど森鴎外記念館になっているのは一室のみで、他の号室では人々が普通に生活しているらしい。
 さっそく記念館用のベルを押すと、「ヴー」と聞き慣れた呼び出し音が聞こえ、扉が開く。鴎外も見慣れていたであろう、アパートの入口だ。二階の記念館へ向かう途中の階段には、『舞姫』の一節が階段に沿って貼られていた。
 そして二階の記念館へ足を踏み入れると、奥から研究員の方がやってきてくださって、私が日本語を話すことを確認してのち、発音こそ違和感があるものの、正確な文法規則に則った美しい日本語で案内をしてくださった。どうやらここはフンボルト大学に付属する施設のようで、彼自身も森鴎外の研究者であるらしかった。

オーガイ・ザ・デスマスク

 森鴎外記念館とは言うものの、特別展は江戸時代の生活についてのものであったりと、実際には展示を森鴎外にのみ限定しているわけではなく、ドイツと日本文化の橋渡しとしての機能を目指しているようだった。
 最奥の部屋には当時の下宿生活を再現した部屋があり、床の軋みや彼の直筆の手紙など、百年以上前を生きた偉大なる先人との距離が近づくような興味深い展示物が数多くあったが、なかでも私の心を捉えたのは、壁に設置された鴎外先生のデスマスクであった。

人間的、あまりに人間的な

 安らかに目を閉じた鴎外先生のその表情、留学当時二十代であった男にしては多すぎるシワの量、そして当時の日本ではまだ珍しかったムスタッシュ…… その顔には、「国家」という、二十代前半の若人が背負うにはあまりにも重たいプレッシャーによる労苦と、それに十全と応えてみせ、西欧文化を積極的に「面白がって」取り入れてみせた、若人の柔軟さがたたえられていた。その多すぎる偉業から、私の中ではもはや怪物と遜色なかった森鴎外が、「人間」の姿を見せた瞬間であった。
 下宿部屋の隣には、巨大な図書室があった。鴎外の著作はもちろん(鴎外関連史料まで徹底していて、例えば鴎外の娘がグラビアのインタビューに応じているために保守系雑誌『正論』まで揃えるほどの徹底ぶりであった!)、近現代の文豪の全集はほとんどが置かれていた。

日本の図書館じゃない、ベルリンの光景ですよ、これは!

 日本文化との橋渡しとしても、非常に有意味な建物であったように思う。期せずしてこのような建物を発見できたことは、たいへんな僥倖であった。ドイツ語の氾濫に酔いつつあった私にとって、望郷とも言うべきささやかなひとときを味わわせてくれた。案内してくださった研究員の方、こうして意義ある記念館を作ることに決めたフンボルト大学、何よりも森鴎外先生に対して、心から感謝したい。

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