そこにわたしの血は通ってない
ドラマや本のなかで見かけはするものの、わたし自身は一度もつかったことがないフレーズが存在する。
「お見知りおきを」
「恥を知りなさい」
「冗談じゃないわよ」
ねえ、いつつかうの? 誰につかうの?
あらためて考えてみると、頭にはクエスチョンマークがたくさん飛来する。
「お見知りおきを」か……。どれくらい高貴な方にお会いしたときにつかえばいいのだろうか。残念ながら、わたしは平民であるからして、このフレーズが最適なシチュエーションに出くわすことはなさそうだ。そして、つかわなくてもいいかな、とも思っている。
つかい慣れていない言葉は自分になじまない気がするのだ。
身長の低いわたしが若い頃、すらりと背の高いモデルさんと同じ洋服を買っても着こなせなかったように、背伸びしてつかった言葉は自分をよくは見せないはずだ。
「お見知りおきを」が日常的に口からとびだす生活はしていないし、人に「恥を知りなさい」と言えるほど高潔な人格でもない。あと、「冗談じゃないわよ」は、東京弁っぽい感じがするうえに(わたしは大阪弁丸出しである)、ふさわしいシチュエーションを絶対に見つけられないんじゃないだろうか。弱気なタイプにはつかいこなせないやつだ。
憧れの(?)フレーズを列挙してみて気づいた。
おそらく言葉にも「等身大」がある。「自分らしさ」という概念を追うのは好きではない。でも、「どこまでもわたしらしい言葉」はたぶん存在する。
仕事をはなれて書くときはいつも「もっとわたしならではの表現があるんじゃないか」と問うている。なかなか見つからないけれど、それを追うことが代替不可能なテキストを構築する遠くて近い道だと思っている。
人にウケやすい言葉は確実にある。最大公約数的に人の心をつかみやすいフレーズやテキストというものが、この世にはある。わたしも仕事では「うまいこと書いてやろう」と常に企んでいる。
誰かの手によるうまい言葉に出会ったとき、わたしは敗北感を感じるとともに、こうも思う。その言葉、誰かの血は通っているかもしれないけれど、わたしの血は通ってない。
ああ、「お見知りおきを」をつかってみたい。でも、つかわない。つかえない。自分のものではない言葉は大怪我のもとだったりして、と思うことがある。
あなたが書かないようにしていることはなんですか?