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わたしの不穏を探る旅【エドワード・ゴーリー展】

奈良県立美術館で開催中の『特別展 エドワード・ゴーリーを巡る旅』に行ってきた。

久しぶりの奈良!

近鉄の急行に乗るのは、何年ぶりだろう。
車内には外国人の方々も多く、ああ、観光地に向かっているのだと実感が湧いた。

改札前の鹿さん。

近鉄奈良駅につくとすぐに、鹿さんと五重塔が出迎えてくれた。
この前で自撮りなんてしてみたかったが、勇気が出ず……!

地上に出ると案内板が。
観光地ならではのわかりやすさが素晴らしい!

奈良県立美術館への道はとてもとても、わかりやすい。
お天気がよかったから木々の緑も鮮やかで、歩くだけで心が軽くなった。

……と言いつつ、目的は決して明るいとは言えないエドワード・ゴーリーの絵なのである。

美しい空、美しい雲、美術館。
せんとくんが待っていてくれましたよ。

これまた久しぶりのせんとくんにご挨拶してから館内に入る。
いざ、『特別展 エドワード・ゴーリーを巡る旅』へ。

『不幸な子供』のパネルがお出迎え。

モノトーンの線描画で知られるエドワード・ゴーリーの作品250点ほどが展示されている。

わたしがその繊細かつ穏やかならぬ雰囲気にはじめて触れたのはずいぶん前だ。
ペン、インク、紙のみでできあがる世界に一目で魅了された。

以来、エドワード・ゴーリーの作品は「大人のための絵本」だと感じてきた。
偏執的なまでに細かく描きこまれたモノトーン画は、子どもに喜ばれるタイプのものではないだろう。
(実際、うちの娘たちは怖がっていた)

だから、大人がなにかしらの教訓を得るための教科書的な絵本として、人気を博したんじゃないかと思っている。
毒気があり、人生の機微を教えてくれるような示唆に富んだ「大人のための絵本」だ。
不穏さを隠そうともしない、あの世界観がたまらない。

展示会は5章構成になっている。

【第1章】ゴーリーと子供
【第2章】ゴーリーが描く不思議な生き物
【第3章】ゴーリーと舞台芸術
【第4章】ゴーリーの本作り
【第5章】ケープコッドのコミュニティと象

わたしが惹かれたのは「ゴーリーと子供」「ゴーリーと舞台芸術」だった。
『不幸な子供』でゴーリーを知った身としては、やはり子どもの描かれ方に好奇心をそそられる。
また、演劇とゴーリーというとりあわせも興味深かった。

どの章も展示数が多く、見ごたえがある。
ただ、小さな絵がガラスの向こうに飾られているパターンが多いため、目の悪い方は単眼鏡などを持参されるとよいと思う。
(でないとせっかくの細かな線描が味わいつくせない)

今さらすぎるのだけれど、わたしは『不幸な子供』の訳者が柴田元幸さんであることを最近知った。
そうだったんだなあ、と思い返しながら進む。

章を追って展示室を移動するたびに、心が騒ぐのを感じた。
不条理で救いようのない結末を迎える絵本たち。
可憐なバレリーナをからめとろうとする黒い手。
この世の終わりのようなドラキュラの姿。
そんなエドワード・ゴーリーらしい世界観をたどるうちに、自分のなかの不穏さがかき立てられていく。

わたしは人生において「小さな幸せを見つけながら暮らすこと」を大切にしている。
生きていくって、いいことばかりじゃない。
楽しいことばかりじゃない。
だからこそ、ささやかな幸せを手にした瞬間を忘れずに過ごしていきたいのだ。

でも、そうやって暮らしていると、世界にある不条理や不幸、悲しみが「なかったこと」になりそうな気がするときがある。
わたしはもともと幸せだったんじゃないか、と勘違いしてしまいそうになる。

そうじゃない。

「不条理だらけの世の中で自分だけの幸せを見つけて生きていくのが大事なんだ。お前の幸せは『不穏』のなかに成り立っている」

エドワード・ゴーリーの恐ろしくも美しい線描画たちは、わたしにそう教えてくれる。

この不条理な世界に自分の座標を刻み、生きていくこと。
きっと大切なのは世界と向き合う姿勢なのだ。

美術展に行くとかならず
クリアファイルとポストカードを買います。

「すごい不穏な絵やな」

帰宅後、わたしが買ったグッズたちを見た夫が言った。
そう、ときどき自分のなかに不穏を探らないと勘違いしそうなのよ、わたし。
心のなかで返事をした。

こうして秋の一日、奈良で素敵な時間を過ごしてきた。
また行きたい、奈良。

記事にしよう、記事にしようと思いながらもなかなか仕上がらず、今になってしまいました。

奈良県立美術館『特別展 エドワード・ゴーリーを巡る旅』の会期は残すところあと一日。
「一日しかないんかい!」というツッコミが聞こえてきそうですが、ご都合のつく方はぜひ足をお運びになってはいかがでしょうか。

#芸術の秋

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