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キリスト教徒とネトウヨ、そしてジャイアンツファンについて考えて気づいたこと

 Wi-Fiの新しいルーターが来た!というわけで1日遅れてnoteを更新します。

 さて、石破茂新総理が誕生しました。そしてジャイアンツもセ・リーグ優勝。石破氏や読売ジャイアンツについての個人的なコメントは控えることにするけれど、それなりに思うことはあった。特に気になったのがネトウヨとジャイアンツファンの存在についてだ。
 個人的に、自称リベラルという人のネトウヨを小馬鹿にする感じはあまり好きではない。青木理氏の「劣等人種」発言にしてもそうだけれど、リベラルの人の一部は自分の知性や感性、そして価値観を信じすぎているように思う。僕も実を言うと一般的にリベラルと呼ばれる人と政治的な考えかたは似通っているのだが、人を嘲った言葉はあまり戦略的ではないと思っているので控えている。強調したいのは「人を嘲るのはよくありません!」ということではなく、「逆効果だ」ということ。僕は『北風と太陽』の教訓を信じていて、相手を苛烈に攻撃すればするほど反発されると思っている。

 いきなり話が逸れてしまった。僕が不思議なのは、ネトウヨと言われる人のXを見ると、あまりにも人の言うことに耳を傾けないということだ。どんなに反論され、その根拠を説かれようとも言い分を変えずにずっと反対勢力のネガキャンをしている。それが奇妙だった。もちろん、ネトウヨからなにを言われても頑として耳を傾けようとしないリベラルも同じだ。
 そういったネトウヨの存在が以前から疑問だったのだけれど、ジャイアンツの優勝報道を見てなんとなく思い当たる光景が浮かんだ。それは東京ドームでのジャイアンツ一色の応援風景だ。
 1990年代後半以降に生まれた人はピンと来ないだろうが、昔は野球の報道といえばジャイアンツ一辺倒だった。子供の頃からジャイアンツの報道ばかり見ていたら、ジャイアンツに親近感を持つかうんざりするかのどちらかしかない。そして多くの人はジャイアンツファンになっていたように思う。積極的なジャイアンツファンでなくても、なんとなくジャイアンツが好きという人は全国に多かったはずだ。ここで注意しなければいけないのは「ジャイアンツが人気だからジャイアンツの報道が多い」のではなく、「ジャイアンツの報道が多いからジャイアンツファンが多くなる」というところ。そこにあるのは情報量にものを言わせるというやりかただ。一応言っておくとこれは昔の東京の話で、関西や名古屋、広島はまた違うだろう。

 そしてここで僕が毎週勉強しているキリスト教の話。キリスト教では毎日朝晩と食事前に祈って、聖書を読むということを習慣にするようにと教えられる。
 僕は「キリスト教の教えを生活の指針のひとつにしてはいるが、神さまの存在を信じているかどうかについては保留している」というなんとも半端なクリスチャンなので、毎日の祈りや聖書を読むということについても、「これで信じてはいけない」とブレーキをかけている。
 それでも毎週同じ人と勉強をしているとキリスト教の考えかたが染みついて、他人がキリスト教を否定するようなことを言うと、ちょっとだけ嫌な気分になる。特に日本人はキリスト教についてちゃんとした知識を持っていないので……とここまで考えて、「あ、これってネトウヨが『パヨクは真実を知らないw』と言ってるのと同じじゃないか?」と気づいた。これも上で言った「情報量にものを言わせてシンパを作る」に近いのだ。

 つまり「情報量」「情報に触れる時間」、そういったものは容易に人が信じるものを決定するのではないか。ネトウヨが、ジャイアンツファンが、キリスト教徒がひとつのことを信じられるのは、それが信じるに足ることか否かよりも、どれだけその考えかたに触れている時間が長いかなんだろう。そして人間というのは不思議な生き物で、「そんなもの信じないほうがいいよ」と言われると余計にそのものについての情報を仕入れたくなってしまうのだ。それを他人はバカと言うが、一概に責められることではない。何度も言うが、「正しいから信じる」という思想は少ないのだ。ほとんどの信条は「それについての情報に多く触れているから信じている」にすぎない。親と同じ宗教、同じ政治思想、同じ贔屓チームというのはそう考えると不思議なことではない。

 そうは言っても、僕は単に情報量が多いからという理由で神を信じるのは嫌だし、政治や贔屓チームに対しても同じことを思っている。ただそれでも、どんな情報を浴びてきたかがわからない他人の信条を、ただ「そんなのはバカだ」とは言わないように気をつけ続けるだろう。

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