運について考えてみたよ
自室でも職場でも冷房をガンガン効かせているため、身体がグッタリしている。それに加えてちょっと落ち込むようなことがあったので先週はお休みしてしまいました。すみません。
そんなこの夏の悪いところが全部出たかのような1週間を過ごして、ちょっと運の巡りとかそういったことも考えた。一応、僕はクリスチャンなのだが、キリスト教の世界で運や巡り合わせをどう扱っているのかは不勉強で知らない(運悪く事故で死ぬことはある、ということは明記されているが)。今度、誰かに訊いてみようと思っているが、僕自身はこの運というのをかなり信じている。
さて、運とはなにかというのは定義がなかなか難しいが、「自分の力ではどうすることもできない偶然の力」ということでひとまずそんなに反対意見は出ないと思う。幸運に恵まれる人とまったく運がない人というのも、だいたいはこの定義から導き出されるだろう。
日本では、財界人やアスリートがゲンを担いだりするというのはよくある話だ。恐らくだが、努力をすればするほど自分の力ではどうにもならない領域に敏感になるのだろう。目に見えない領域というのは、頑張っている人ほど信じる傾向にあるような気がする。物事に敏感でない人は、目に見えない領域を軽視し、即物的なものだけで事象を判断する。これは別に理論に基づいて言っていることではなくて、今までの経験からなんとなく僕自身が思っていることだ。
実際にこの世に「ラッキーの確率」のようなものがあって、そのラッキーが起こる確率の高さが運だとする。これは間違いではない気がする。なんとなく、ツイてる奴はずっとツイてる気がするし、ツイてない奴はとことんツイてないということはある。さだまさしの曲で「運がいいとか悪いとか人はいろいろ言うけれど、そういうことってあると思う」という歌詞があるが、これはかなりわかる。
そして、歳をとればとるほど、自分の努力だけではどうにもならないことを痛感するようになる。ただこれは悲観的になっている訳ではない。むしろどうせ最後は運次第だと思うとなにをするにも気楽だ。もしも自分がもっと実力主義で、なんでもかんでも努力で解決できると思っていたら、悪いことが起こっても自分の努力が足りないせいだと落ち込むことが増えるだろう。そんな風に考えて生きている。
ただ、僕が世話になったある人は、「本当に運というものがあるかどうかではなくて、どこまで自分が調子に乗れるかだと思う。ツイてると自分で言う人にはツキが巡って来るような気がする」と言っていた。強引な意見ではあるが、間違ってはいないと思う。あらゆる幸運を「なんとなく、たまたま」と受け取るのではなくて、自分を勢いづけるキッカケにする。確かにこうしてポジティブに物事を考えると、判断力なども上がるだろう。「これ大丈夫かな……」という感じで行動すると失敗するようなことでも、自信を持つと案外通ってしまうというようなことはままある。
大谷翔平は運を味方につけるためにゴミ拾いなどをするらしいし、仏教では毎日の掃除を重視したりするそうだ。これも自分を調子づかせるための工夫だろう。自分を騙すのが上手い人というのはやっぱり強い。8月の悪運に見舞われた今、なおさらそう思う。