![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157059246/rectangle_large_type_2_ffecf0ca031a05734d31a8229c0649c8.png?width=1200)
タバコについて
私は一時期、ピクルスにハマっていたことがあって、ヘングステンベルグのガーキンスの瓶を買っては冷蔵庫に入れておき、小腹が空いたときのおやつとして、瓶から一、二本つまみ出してそのままボリボリ食べる、ということをやっていた頃がある。
最後にピクルス瓶を買ったのがいつだったか思い出せないが、その最後にピクルス瓶を買ってから今に至るまでの期間、もちろん、私は自らにピクルスを食べることを禁じていたわけではなく、単にお店で見かけることがあっても、敢えて買って食べようという消費行動にまで達しなかった、というだけのことである。
それと同じような感覚で、すなわち長い間ピクルス習慣から遠のいていたからといって、それが禁ピクルスしていたわけではないのと同じように、ずっと禁煙していたわけではなかったのだが、私はここしばらくの間、煙草を吸っていなかった。敢えて買ってまで吸おうという気持ちが起こらなかったのである。
しかし先日、おそらく三年ぶりくらいになると思うが、久しぶりに煙草を買ってみた。ようやく夏の終わりが感じられる夜風が吹くようになって、ふと、散歩がてらたばこ屋へ赴くことにしたのである。
煙草というと、私は子供の頃に読んだ、芥川龍之介の「煙草と悪魔」という短編小説を思い出す。
ネタバレを含む簡単なあらすじを説明すると、その昔、まだタバコが普及する前のこと、タバコ畑を耕す悪魔がいた。それを見た牛商人が、その植物はなんという名前のものであるかを尋ねるが、悪魔は教えない。そして商人と悪魔は賭けをすることになる。もし三日間のうちに牛商人がこの植物の名前を言い当てることができたら、この畑を全て牛商人にくれてあげる。言い当てることができなければ、牛商人は自分の体と魂を悪魔に差し出さなければならない、という賭けである。
結果、ギリギリのところで牛商人が名前を言い当てることができ、勝負は悪魔の負けとなって終わる。しかし、これによって悪魔はタバコを全国に普及させることができた。一見、勝利したのは人間の方であったが、果たして本当に負けたのはどちらだったのだろうか、というような具合の話である。
私は長いこと、この物語をトルストイの作品として記憶していたのだが、改めて調べ直して、それが勘違いで、芥川の作品であったことに気がついた。記憶とは役に立たないものである。
さて、自分が主に吸っていた銘柄は、「ダブルハピネス・オリジナル」、「チェ・レッド」、「クール・ループド」の三つであった。これらの煙草は、もちろん誰一人にも知られていないわけないが、決してメジャーな銘柄ではなく、どのコンビニでも取り扱っているようなものではない。むしろ見かけることは稀であるような気がする。当時、私は多摩川沿いの川崎市宿河原のあたりに住んでいて、たまたま近所にあったお米屋さんが色んな煙草を取り扱っており、そこで教えてもらったのだ。煙草を心から愛しているような、親切なおじさんだった。
最初に買った煙草は別のもので、アメリカンスピリットの黄色っぽいやつだった気がする。26歳の頃だった。そのときまともに名前を知っている銘柄が、マルボロとアメスピくらいしかなかったのだ。なぜその二つなのだ、という感じだが、マルボロは小学生の頃に使っていた自由帳か学習帳かなにかの表紙を見て覚えた記憶がある。表紙の写真がF1カーで、そのリアウイングに大きく「Marlboro」と書かれていたのだ。おそらく自分が最初に認知した銘柄である。アメスピは、普段煙草を吸わない仲の良い友人が珍しく吸っていて、それを見たか、一本貰ったかで知ったような気がする。ところでF1マシンにおけるタバコ広告は、随分昔にNGになったらしい。自分の子供時代は、すでに一つ前の時代なのだと思い知らされる。
初めて自分で煙草を買ったときの気持ちを、私はよく覚えている。それは20歳くらいの子が大人への背伸び的なものとして行うものではなく、煙草を吸うことでかっこよく見せようというようなファッション的なものでもなく、喫煙所での”タバコミニュケーション”に憧れがあったわけでもない。いわんや、別れた恋人に思いを馳せるような色っぽいストーリーがあったわけでもない。当時抱えていた学位論文執筆に対するストレスも大いにあったとは思うが、それが喫煙のきっかけであったかというと、そういうわけでもないような気がする。
煙草を吸う人と出会うたびに、「そっか、この人もタバコとか吸うんだ」と思ってしまう自分が嫌だった。そんなことで何故かいちいち落ち込んだり傷ついてしまう自分でいることが、嫌だったのだ。寂しさに似た胸の締め付けである。初めてアメスピを買った夜、水中で溺れるような息苦しさの中、必死に水をかき分けて、水面からなんとか顔を出して息を吸おうとするようにして、コンビニの灯りに照らされながら火をつけたのを覚えている。
煙草と一緒に買ったマッチを取り出して、久しぶりの煙草に火をつけると、その頃の感覚を思い出した。ガスライターよりもマッチの方が好きである。風が強いとすぐに消えてしまうし、売っている場所も探してみると案外少なくて困るけど、そのくらいで良い。
煙草が短くなってくると、フィルターに近づいた火の温かさを唇と指先で感じとることができ、少し安心する。煙草はたぶん、秋の夜の空気が一番合う。
もちろん、これは喫煙の勧めではない。なぜならそう、”喫煙は、動脈硬化や血栓形成傾向を強め、あなたが心筋梗塞など虚血性心疾患や脳卒中になる危険性を高め”るし、”たばこの煙は、あなただけではなく、周りの人が肺がん、心筋梗塞など虚血性心疾患、脳卒中になる危険性も高め”るからだ。タバコのパッケージは親切で、重要な事実を教えてくれる。一つも良いことがない。いずれは日本でも海外のパッケージと同じように、喫煙によって真っ黒になった肺がん患者の臓器写真とかが表示されるようになるのかな。
「チェ・レッド」のパッケージには、キューバ革命の英雄”チェ・ゲバラ”の顔が大きく描かれている。大きく描かれていた、というべきか。パッケージを占める喫煙危険性の警告文の表示面積が大きくなって、それに伴って、ゲバラの顔も少しずつ小さくなっているのだ。小さくなったゲバラの顔を眺めていると、なんだか拍子抜けしたような気持ちになる。歴史に残るキューバの英雄も、発がん性物質には逆らえないのだ。
きっと、許せるものは多い方がいい。しかし、私は嫌煙家にも愛煙家にもなりきれない。いっそどちらかだったらもう少し楽になれそうなのに。中途半端で、哀れな喫煙者。哀煙家、とでも言いたいところだが、さすがにそれはちょっと厨二的過ぎる。
もしかすると、こうして自分が喫煙している姿もまた、どこかの誰かを少し、傷つけているのかもしれない。
<参考>
芥川龍之介/煙草と悪魔(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/163_15142.html