体の声に耳をすませば
昨日の記事で、胃痛の種類がキリキリなのかシクシクなのかムカムカなのかわからない、という話を書いた。
それ以外にも、私はあまり自分の体のことに敏感ではない方だと思う。
例えば、「無性に〇〇が食べたい」という感覚。
幼い頃に、母が普段食べないもの(たくあんだったり煮豆だったり、そのときで変わる)を突如として欲するのが不思議で仕方なかった。
今日は暑いからかき氷が食べたいとか、元々好きなものだけど最近食べていないとかならわかるけれど。
大好きなわけでもなく、日常的に食べる習慣がないものを欲しくなるトリガーは何なのだろうか。大人になった今でもあまりよくわからない。
食べ物はともかく、体にとっての不快や変化に鈍感であることは、行きすぎると危険なのではないか。
ふと、ずいぶん昔にハマった乙一の「ZOO」という有名なホラー短編集の、とある一説を思い出した。痛覚がない男の話。
前後のストーリーは定かでないが、痛覚がないために包丁で刺されたことに気づかない。致命傷を負いだらだらと出血しているのに、当の本人は気づいていない。
不快を感じるセンサーが働かないことの不気味さにゾッとした。
これは小説の中の出来事だけれど、痛覚の有無は置いておいて、体の素直な感覚や変化を無視しているという点では、私も似たようなところがあるかもしれない。
本当はこれをやりたい。
本当はこれはやりたくない。
本当はこっちに行きたい。
本当はこっちに行きたくない。
私の体もこういう声をあげているのだろうか。
聞こえていないのだろうか。
それとも聞こえないフリをしているのだろうか。
その声を無視し続けたら、いつか体の方が言うことを聞かなくなるのだろうか。
よく夫から、もっと自分の体を大切にした方がいいよと言われる。別に蔑ろにしているつもりはないけれど、夫には体のことを顧みない人間に見えているのかもしれない。
自分の体を大切にしてあげられるのは結局自分だけだから。もう少し体の声に耳を澄ましてみてもいいのかもしれない。
この先も人間らしく豊かに暮らしていくために。