私たちは何のために働くのだろうか?
私たちは何のために働くのだろうか。
食べていのちをつなぐためだという原形はすぐに見えてくる。そしてどんなに文明が進んでも人間が動物である以上この条件は変わらない。数百万年間採集という分かりやすい形で、食べること、働くこと、生きることはぴったりと重なっていただろう。
しかし人間はとびきり好奇心の強いサルである。いのちの確保以上に珍しいこと、美しいものが好きである。ここから、交換、商業、交易が始まる。おそらく「よく生きたい」はここに発するだろう。人間にあっては「よく」は必ず「よりよく」であり、それは比べることから可能になるからである。働くことのもう一つの原形、それは、「よりよく」に応えること、具体的には、おいしい食べ物、きれいな着物、見栄えのする道具を含めて、珍しい美しい「財(宝)」を所有することである。
働く人々にも、作り出す人と交換する人の区別ができてくる。前者は「生きる」という人間に自然で必然の基本に関わることであり、後者は「よく生きる」という、必ずしも必然とは言えない欲求に基づく。他の動物と異なる人間らしさは後者の発達を著しく促し、間接的な交換が直接的な食糧や道具の生産とあい並ぶようになる。
また、働くことと享受することの分化も生じる。例えば、幼き子ども、弱った病者や高齢者、支配者が食べるために別の人が働く。財に関しても、美しいものを作るには才能が必要だから専門の工芸の作り手が発生し、遠くからやってくるものほど珍しいから交易をもっぱら仕事とする商人が働くことになる。
こうして働くことの派生形ができるのである。それは、獲得したい食糧や道具や財に交換できるものを生み出す間接的な労働である。これには、あらゆるものに交換できる貨幣を獲得することが便利である。だから働くことは結局、金を稼ぐことに帰着した。
この段階で思考停止になってしまう人がいる。働くのはすべて金のためだ、と。たしかに物や人を左右する力の多くが金によって手に入るように見えるから、その魅力に取りつかれた人には確信になりやすい。ところが働くことはもっと奥深い。
ここで内山節の「稼ぎ」と「仕事」の区別を借りよう。稼ぎは賃労働のことであって、報酬として金以外目的をもたない働きのことである。このような労働は苦役としか感じられないだろう。
では稼ぎと対置される仕事はどんな特徴をもつか。それは、私の仕事とか誰それの仕事というように固有名詞をもつということである。稼ぎではその働き具合にケチがついても平気だし、見つからなければサボってもよいと思う。所詮金のためだ、と。ところが仕事の評価はよくても悪くても人格の評価のように感じられる。立派な仕事だ、つまらん仕事だ、と言われることに一喜一憂し、怒り出すことすらある。稼ぎと違って仕事は人格化される。
ここには何が見てとられているのだろうか。それは働くことは自己実現だという考え方である。自己実現の純粋な姿は、砂場で熱心にお城を築いてすごくうまくできたときの幼児の笑顔である。天才的な芸術家にはこれと共通する仕事の姿がある。だが、どんな仕事にもこの要素はあって、誰をも我知らず頑張らせてしまう。
ところが、普通この自己実現は他者から認められることによって確認され強められる。というよりも、共同体の中で与えられた役割を果たすことで、仲間から認められ、その結果自分の仕事の中に見出せる、と言ったほうが実態に合っている。この意味では働くことの最も強い意味づけは、共同体の中に役に立つ一員として位置づけられることである。社会に貢献していることを認められることが人間を労働に向かわせる最大の動機であり、報酬である。
さらに、社会をみんなで支えるための、もう一つの労働の意味がある。かつては物納や労働力そのものの徴用もあったが、今はその代わりに税金を納めることである。役所や保安の仕事、ゴミ収集、公務員の給与などの社会を運営する費用を国民は税金で分担している。働くことの一部はこの税金を納めることである。あらゆる人がそれぞれにふさわしく力を尽くして、社会を支えているのである。
以上を踏まえて、自分の人生に仕事を組み込むことを考えなければならない。「よく生きたい」はここで「よい仕事をしたい」という形をとる。よい仕事があるのではなく、仕事へのよい取り組み方があるということである。真剣に責任感をもって働く、何がよいか考えながら働くことで自分の仕事に意味を見い出す。この姿勢が良い仕事を作り出すのであって、目の前によい仕事が待っているのではない。よい人生もまたしかりである。
(工藤和夫『くらしとつながりの倫理学』より)
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