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「愛され」って言葉は好かないけど。

初めてのことをする時は、多くの場合が先人たちからの指導やアドバイスを受けるのではないかと思います。

完全に自己流というのは、今を生きる私たちにとってはほぼ皆無なのではないでしょうか。

私は最近新しくスポーツを始めたり、これまでとは違った仕事のやり方に挑戦したりの日々なのですが、そこで改めて考えたことがあるんです。

「coachableな人であれ」

これつまり、気持ちよい学び手であれ。という意味だと私は理解していて。

人に何かを教えてもらう時、指導を受ける時、アドバイスをもらう時、それが自らの意図であったとしてもそうでなかったとしても、受け手としての姿勢をどう捉え意識するのか。

どんな人だったら「また声かけよう!」と思ってもらえるのか?という視点は結局のところ自らを客観視していないとできないのではないかと思うんです。

自分だったら、どんな人に何かを伝えたいと思うのか。
また会ったら話をしようと思ってもらえる人物像ってなんだろう。

人によって求めるものは違うのかもしれないけれど、本当に些細なことだったりもするんじゃないかな。

お礼を伝えるとか、素直さとか、謙虚さとか。

それを上手にできる必要はないと思うんです。
不器用でも、うまく言葉にできなくても、ひたむきさは必ず態度に出ると思うんです。

だんだん大人になっていくにつれて、なぜか何かを分かった気になり、必ず持っている「分からない」という事実を避けたがるのはとても寂しいことだと私は思う。

これは知識レベルの話ではなく、生き方の話。

今こうして、改めて「気持ちのいい学び手って?」を問い直せたのはとても良い気づきに繋がっています。

頭で「分かっている」かもしれないことも、一度手を動かして紙に書いてみると面白いですよ。

ちなみに、この記事のタイトルにした「愛され」という言葉は、やっぱりなんだか好きにはなれないんだけど「愛される人間」って、どんな人だろうという問いは、持ってみると少し考えが深まるような気がしています。


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木村みほ
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