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善と清

うちの業界を志している方、目指している方に、とても多いのですが、『善』と『清』であろうとしていらっしゃるんですよね。

『善き行い』をして『善人』でいること。
『清く』生きて、『清人』であること。

悪いことではないし、お気持ちはよく分かります。
だけど、この二つは、とても引っかかり易いトラップでもあるのです。
『善』と『清』であれば、『聖』の領域に入れる、そんなふうに考えている方々が、とても多いのです。

でもね、まず、『善』=『正』ではありません。

『善』のひとの特徴。
〜であるべき。
〜でなければならない。
〜で当たり前。
こういう思考のひと、すごく狭い主観のなかだけで物事を見ているんです。
自分は善きことをしている。
自分は正しい。
そう思って、そういう行動をしているので、視野がとても狭くなって、たくさんのものを取りこぼしてしまいます。
そして、何かあったときに、「自分は間違っていない」、「自分は正しい」と言い張って譲れなくなり、結果、『謝ることができない』という残念なひとになっていってしまうのです。
それは、とても、怖いことです。

また、『清』=『聖』ではありません。
『清濁併せ持ったひと』が、『聖』の道に入れるのです。

『聖』という世界は、海に似ています。
たくさんの河が、海に流れ込みます。
そのいろいろな河の澱みや濁り、養分を受け容れて、『海』というものは存在しています。
海が深く、広く、『聖』なのは、すべてを内包する力があるからなのです。
それにね、『清流』って、あるでしょう?
綺麗すぎる河には、魚も存在できないんです。
そんな『清』って、何か欠けてますよね。
魚くらい住まわせてあげられるくらいの、河で在りましょうよ。

汚れなさい、という話とも少し違うんですよね。
もちろん、ある程度の『濁り』を経験していたほうが、人として、包容力があり、魅力的な存在になっていきます。
なかには、こんな経験したくなかったよ、と思っている方もいらっしゃるかもしれません。そのときは、辛くてしんどくて、苦しいです。
でも、『乗り越えられるもの』、『自分で呼び込んでいるもの』だから、目の前に現れてくるだけなのです。
私みたいなのでも越えてこれたんだから、みなさんも、きっと、大丈夫。

瀬戸内寂聴さんや美輪明宏さんを思い浮かべてみてください。お二人が、なぜあれだけ美しく、温かく、優しく在れるか、それは、いろいろな経験を積んでいらしたからです。

世の中のだいたいの物事は、『正しいor間違ってる』で判断はできません。
そして『清く』在れば何でもスムーズに行けるわけでもありません。

『聖』を志している方のなかには、「なんであんな人間が勝ち上がって成功しているんだろう」と感じることもあるでしょう。
でも、それは成功の法則をそのひとが知っていて、流れを掴み、乗っていくことを知っているからなのです。それは全然、悪いことなんかじゃない。

私は以前レイキを受講して、サードまで学んだのですが、わりと真面目に取り組むほうの生徒でした。自分の素の力を知っていたので、それをより活かしたいと思って始めたのです。
毎日欠かさず練習して、呼吸法もやって、瞑想もして、真面目にやってましたね、うん。

で、レイキの教えに『五戒』というのがあります。

今日だけは

怒るな(いかるな)
心配すな
感謝して
業を励め
人に親切に

というものです。

今日だけは、っていうのは『今日』だけやればいいっていう意味ではありません。今、この瞬間、どう在るべきか、という深い教えです。

ほとんどの人が、『怒るな』で躓きます。
私もそうでした。
『怒らない』と意識するほど、理不尽で腹立つ出来事がやってきました。当時、『善』で『清』で在ろうとした私にとって、『怒り』を覚えてしまうことは、教えに反することで、自分の未熟さを晒されているようで、とてつもない苦痛でした。
完全に試されているのですが、私は『怒り』の渦に巻かれながら、「怒っちゃいけない」と自分を諭したり、「怒るな怒るな」と必死で抑えつけたりしていました。

なんで突然レイキの話を出したかというと、実はその後、私はほとんどレイキをやらなくなってしまっていたのです。やめたのではなくて、気づいてみたら、やらなくなっていたのです。

それから十数年経った今、あることに気づいたのです。「流れてる」。
シンボルもマントラも無しで、でも、私の両手からは、あのジンジンとした熱・痛い特有の感触が顕れてきています。
普通に、記事を書いていても流れてるし、ご飯を食べていても流れてるし、ずーっと、流れてるのです。
もうひとつ、気づいたのは、「怒ってない」。
あんなにあった怒りやそれに類する感情に、ずいぶんと長いこと、出会ってないのです。
そして、「感謝してる」。
不思議なんだけど、「感謝しなきゃ」と思っていたあの頃が嘘みたいに、普通に『ありがたみ』を感じられています。

今、思うのは、たぶん、「私は手放した」んだろうな、ということです。
『善』で在ろうとする自分も、『清』で在ろうとする自分も、『怒っちゃいけない』という感情も、『感謝しなきゃ』という思いも、全部手放した。
手放した結果、それらを手にして身につけた。
なんだろう、この不思議な仕組み。不思議な流れ。


『善』って、実はあんまり善いものじゃない。
『清』も、ほどほどにしておいた方がいい。

◯◯で在ろう、とか、こんな自分で在りたい、っていうのは、すごく向上心があって、尊い姿勢だと思います。

でも、きっと、やり過ぎないほうが良いし、こだわり過ぎなくても良いみたい。


到達したい『目標』さえ描けていれば、あとは、自動的に運ばれていきます。そこに、『善』とか『清』とか、勿体つけた素性は要らない。
在っても良いけど、無くたって気にしなくて良い。

人生って、『目標=終着点』じゃないですしね。
人生のなかにも、たくさんの目的地があって、例えば受験だったり、就職・転職だったりね。でもみんな通過していくものでしょう?
私もまだまだ、道の途中、旅の途中です。
目的地に辿り着いたと思ったら、まだ途中なのです(笑)。


『善』や『清』が『正義』みたいに、固まらないでね。柔らかく、ほどほどにね。
言いたかったのは、そんな感じです。


読んでくださって、ありがとうございました。
また明日。
おやすみなさい。


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