MIU404が浮き彫りにした「ドラマ化=ワイドショー化」する日本
MIU404、最終回を見た。
「クズばかりの世界」になればいいという久住。そんな久住は、伊吹らに追い詰められた後、仲間に助けを求めたが、その仲間はクスリをやって、クズになっていた。
「望み通りの世界だな」
「こんな世界に空いたお前を、俺は一生許さない。許さないから殺してやんねえ」
「そんな楽さしてたまるか 生きて俺たちとここで苦しめ」
「そういうこと」
久住は自分の作った世界に足をすくわれた。
この結末にはとてもすっきりした。ある意味で快感を感じた。
ただ、この感情がこの後、覆された。
久住を逮捕したのち、伊吹と志摩が事情聴取されたとき、久住は自分の名前に出自に答えない。
彼はこちらを見ながら
何がいい?不幸な生い立ち?
ゆがんだ幼少期の思い出
いじめられた過去
ん?どれがいい?
俺は・・・
お前達の物語にはならない
この言葉にハッとさせられた。
これまでの10話で、各々の犯人のバックボーンや犯行への不条理な理由・感情が描かれていた。さまざまな「物語」を知って、感情移入もし、時に涙し、時に胸がすく思いがした。
しかも思わず、noteに書いてしまうほど、悦に入ってしまった。一種の快感、一種の気持ちよさを感じた。
しかし、11話の久住はそれを拒否した。
この久住の言葉で、犯人・被害者の二人の構造ではなく、そこに視聴者・一般国民が介在する3者の関係・構造を浮き彫りにした。
本当は、その犯罪に関係あるのは被害者と加害者だけで、他の大勢には関係ないはずなのに、そこに知らず知らずに介入してしまう構造がある。
これは、ドラマなら当たり前の構造だ。視聴者は第三者として感情移入し、断罪する。それで気持ちよくなる。
しかし、これがドラマの領域を飛び出してしまっている。それがワイドショーである。
ワイドショーは事故・事件関係者の過去や背景をほじくり、コメンテーターが無責任に斬って終わりだ。これは非常に無責任なことだ。
ただ、この無責任が続いているのは、視聴率がいいからだろう。つまり、この「エンタメ」を楽しみ、快感を覚える人が多いのだ。
この現状を認識し、自己批判し、内省的に生きようと思った。ドラマ感覚で現実世界を見てしまいがちなので、そこは気をつけなければいけない。