『頼山陽─詩魂と史眼』
現在、江戸漢詩分野研究の牽引者といって、揖斐高先生と徳田武先生とを一番に挙げることに異論はないと思ひます。特に文化文政期を中心とする詩人たちの交流を明らかにして来られたのが揖斐先生ですが、文化圏の中心にゐた頼山陽についてはこれまで手を下すことなく、まるで台風の目の如くに、敢へて正面から取り上げることがありませんでした。(尤も1982年の若き日に、古書として掘り出された山陽若年の旅日記『山陽東遊漫録』の解題と翻刻とを担当されてゐます。今回あとがきで知って遅まきながら入手しました。)
このたび体裁は新書ですが『頼山陽─詩魂と史眼』といふ単行本が岩波書店から刊行されました。はじめに「専門的な研究書でなく入門的な概説書である」と断ってはあるものの一読、初心者だけが満足する内容ではないと感じ、理解できる範囲で紹介してみたいと思ひます。
「頼山陽」といふ戦後久しく埃の被ったカリスマについては、かつて四季派と縁の深い中村真一郎・富士川英郎の両先生が、『頼山陽とその時代(1971)』、『菅茶山と頼山陽(1971)』といふ名著でもって一番面白いところを、すなはち長年の放置で手垢の消えた「頼山陽」を、エキセントリックな人物として闊達に描き、彼を幕末の尊王攘夷思想から遠ざけて語ることが可能になりました。
そして彼を筆頭に江戸後期の漢詩人たちの文化圏に対する再評価がうながされ、俳諧や物語など軟文学が中心だったそれまでの近世文芸史が大きく変更を迫られるまでに至ったのですが、それについては中村・富士川の後に続いた徳田・揖斐を始めとする専門研究者の功績といふべく、殊にも新しく漢詩を読み始めた文学愛好の読書子には、揖斐先生による柏木如亭顕彰に始まる化政期詩人達の魅力的な紹介に与る所がたいへん大きかった訳です。その後さらに広い読者層を対象にした見延典子氏らによるドラマ小説も描かれるやうになって、さて令和となった今、新たに書き下ろされる概説書が如何なるものになるのか興味津津、期待もまた大きかったのであります。
早速Ⅰ部、Ⅱ部、Ⅲ部と順番に読んでゆきました。寡聞にして他の評伝との比較はできませんが、岩波新書といふことで初めて頼山陽に接するひとにはⅠ部とⅢ部が人間頼山陽を描写した親しみ深い伝記となってをり、お薦めです。頼山陽の魅力、利己的だけど憎みきれない子供っぽい甘えん坊な性格が随所に描かれ、脱藩騒動や出稼ぎ旅行、収集癖、親孝行において髣髴する様子など、欠かすことのできないおなじみの「人たらし」エピソードはみな収められてゐます。一方で先君への謝罪追善の気持を込めた『春水遺稿』の出版に関することなど初耳と思しき情報も。泣き落としが効かない強面の父春風や謹飭な教育者だった広瀬淡窓は謂はば日本人ならではの堅物の典型であり、片や母親から磊落な都会気質を享け継いだ山陽はカリスマ性の強いロマンチスト。血液型なら突発的に現れるB型のスーパースターみたいで、それは女性にもてますよね。江馬細香や梨影夫人のこともしっかり書いてありました。
そして中間に挟まれたⅡ部ですが、タイトルを「詩魂と史眼」と謳はれた本書ならではの胆になるかと思ひます。第一に詩人としての頼山陽ですが、詩魂のピークを「西遊稿」にみてとり、それまでは絶句を愛好してゐた彼が古詩を推重するようになった理由――畏友武元登々庵の『古詩韻範』(文化9年)による影響を漢詩作法の上から言及し、特色が説明されてゐます。一世代先輩格の江湖社の詩人たちが標榜してきた「性霊派」の詩風から、さきがけて脱してゐるところに頼山陽、そしてこの本には言及がないですが梁川星巌と、相次いで現れる詩壇を席捲するニューカマーが再び唐詩の格調に向かふといふ時代的な流れがあるのですが、斯界の詩人達の評言が列挙されてゐます。
また第二に歴史家としての頼山陽ですが、幕末に多大な影響を与へた主著『日本外史』について、内容・名称がどのやうに形成され定まっていったか、謹慎明けの頃にはすでに同時に胚胎してゐたといふ『通義』『日本政記』の腹案とともに年月をかけて書き上げられていった過程が述べられ、一貫してその背景にあった思想――『孫子』に学んだ歴史哲学が語られてゐます。第八章『日本外史への道』は、まるでドロドロに揺れ動く蛹のやうな山陽の頭の中を見ているやうで、ちょっと表にまとめてみましたのでご覧ください。
そして『孫子』に学んだ歴史哲学(史眼)ですが、どうにもならぬ「勢(時勢と地勢)」の下にあった歴史上の人物の個々の有り様が、名分(儒教的道義)の元で「機」に臨んだ結果、可能性や運命として顕れる様相をいかに文学的に叙述するか、といふ風に私は理解しました。新田氏を正記として置き徳川氏の遠祖に対する配慮を示す一方で、大著末尾に置かれた同時代将軍の徳川家斉については、極盛を言祝ぎつつ実は亢竜有悔を諷意するところがあったとする論賛にも触れられてゐます。
他には『日本外史』の粉本と云はれた『大日本史賛藪』『読詩余論』との関係や、紀伝体することで得た複眼的観点など、「伝記エピソードはお浚ひ済み」とばかりⅠ部を読み進んで来た読者の襟を正さしむる蘊蓄に富んだ内容となってゐると思ひます。
そしてⅢ部で再び伝記に立ち返り、喀血に始まる頼山陽の臨終前後の出来事が語られる訳ですが・・・わが郷土の先賢後藤松陰先生の名前が頻出して参ります。さう、彼は臨終に当たって後事全般を托された最古参の弟子ですが、先師が亡くなった後に編集が始まった『山陽遺稿』は、刊行後にひと悶着がありまして、その条りです。
ひと悶着といふのは──、頼山陽最晩年に弟子入りした江木鰐水といふ新人を、松陰の岳父篠崎小竹(御存知山陽の大親友)が引き取り可愛がってゐた訳ですが、まだ23歳の彼に書かせた「山陽先生行状」をめぐり、山陽弟子を名乗る外部の森田節齋から詰問の体で不満をぶちまけられ、その応答文章が人々の知るところとなり後には本にもされたといふ小事件がありました。謂はばSNS上の難癖にうっかり返答したがために炎上騒ぎとなった江戸時代版みたいなものですが、果たしてそれが「釣り」や「煽り」だったのか、とまれ『山陽遺稿』出版時の不手際として槍玉に挙げられたのは、「山陽先生行状」のやうな大事なものを新参者の江木鰐水に書かせたこと、そして彼の後ろ楯である篠崎小竹の序文もなっちゃいない、といふ二点でした。二人が答へればまたそれに反駁する、と、ことはそれだけに収まらず、小竹親子の外に誰の序跋もなかったり、校訂者の名が記されてなかったり、ってこの責任者あなたですよね、とお鉢は当然松陰先生のところにも回って来ました。つまり先師の死の直後に出版を仕切った『山陽詩鈔』と比較すれば、今回の『遺稿』はどうみても不手際の出来であり、責任者に違ひない後藤松陰の怠慢が嫌疑として紹介されてゐるのです。
なのでわたくし弘化年間に起こったその論争を後世に伝へて本にまでしてしまった『頼山陽先生品行論』(1882)や、安藤英男氏によるその翻刻『頼山陽先生品行論』(1981)を実際に繰ってみましたが、以下は「ひと悶着」をめぐって『山陽遺稿』出版に呈された謎を考察する資料です。興味のある方はお読み下さい。
本書の紹介文はここまで。あらためて新著の公刊お慶び申し上げます。
『頼山陽先生品行論』明治刊の原本(明治15年 花井卯助刊)の見返しには書影で示したやうに、
森田節齋、江木晋戈(鰐水)、篠崎小竹、三大家討論文
後藤世張(後藤松陰)、源士錦・村瀬褧(ともに村瀬藤城)、藤澤東畡、河大年、評論。小泉久時編纂。
とあり、安藤先生の解題によれば、森田節齋の詰問状は、標的たる江木鰐水に放たれる前に、村瀬藤城、牧百峰、宮原節庵、野本洞庵、関藤藤陰、家長韜庵といった山陽の恩顧を蒙った弟子や関係者に配られ、意見を求めたものらしいです。また見返しにはクレジットされてゐませんが同じく頭評を寄せてゐる谷子正(谷三山)とは、特に密に連絡を取って討論対策を練ったものらしいことが安藤先生の解題には書かれてをります。
そして見返しに記された評者の言が明治刊の原本だけに頭評の形で載せられてゐるのですが、ここに頼山陽と最も親しかった美濃の古参の高足お二人の言葉を拾ってみます。まづ森田拙齋から岳父篠崎小竹を難詰されることになった後藤松陰(後藤世張)の感想。
「後藤世張云ふ、此の往復書事、先師・機(松陰)等に係る。袖手傍観すべからず。唯だ晋戈(江木鰐水)虛心平氣ならば事は至當に歸すのみ。(「再與江木晋戈論其所撰先師頼先生行状書」の上に)」
騒動の全体が概括され、これは確かに弘化年間の論争時に記されたものかと思はれます。ところが美濃在住の有徳教育者として知られる村瀬藤城とはいふと、不思議なことに次のやうな言葉を遺してゐるのであります。
「源士錦(村瀬藤城)云ふ、蓋し先師、偶然の歴論、此者に及ぶ、已今遽かに抽挙して証と為す。先師在るが如く當に取らざる所在るべし焉。森君の言、甚だ好し。(「與篠崎小竹書」の上に)」
「村瀬褧(村瀬藤城)云ふ、江木生の書及び此篇行文快利にして議論明鬯(明暢)、深く先師の典刑を得たりと謂ふべきか。僕、固より之を指擿(指摘)するに非ず。之を伹(但)だ其の慷慨扼腕の心を同うするに任し、覚えず筆に任せて一二を告ぐ。傍観と當局(傍目八目)の異なること、其の情を辛察す。其れ狂妄を罪とする勿れ。乙未六月七日。」
「又云ふ、此の書、儻(あるひ)は答へずして浄寫の一本を寄せらるを見る。僕、先師の遺命を受けて『古文典刑』を名府にて刻さんと欲するも而して未だ果さず。近日、之を果して此の文を附刻するのみ。(「與篠崎小竹書」の上に)」
「源士錦(村瀬藤城)云ふ、何等の一書生か個好の言論を成す。小竹先生、定めて當に膽を破るべし。(「答森田謙藏書」の上に)」
大方の周辺の反応は「森田節齋は攻撃的に過ぎる」といふものだったやうですが、はっきり「森君の言、甚だ好し。」と記してゐます。そして問題は乙未(天保六年)の日付があることです。すなはち江木鰐水の行状書も、それに対する森田節齋の論難文も、弘化年間に論争が始まる遥か以前、天保六年には既にできてゐたのであって、篠崎小竹の庇護の元で育った江木鰐水の行状書を、節齋はどうして手に入れたか読んで不満を喞ち、それを綴って古参の弟子たちに送りつけて賛同を求めたものの、意見は無視されて天保十二年、そのままの形で梓に上せられた。編集に与ることなく蚊帳の外に置かれた節齋の怒りはここに至って爆発したのではなかったでしょうか。なるほどさう云はれてみれば、行状書には作成された年月の記載がありません。
実際の論争で鰐水が拙齋の筆鋒にタジタジになってゐるので、節齋の文章が果たして刊行前に江木鰐水の元に至ってゐたかどうかは定かでないものの、少なくとも『山陽詩鈔』には校訂者として後藤松陰の名が載ってゐるのに『山陽遺稿』には誰の名も載せてゐないといふ、本書にて呈された遺稿出版に関する「一つ目の不審な点」の理由として、遺稿の編集作業を自分達だけで隴断進行させてゐるとの風評・やっかみに、小竹・松陰の親子が堪へられなくなってしまったといふことは考へられないでしょうか。「二つ目の不審な点」、なぜ小竹・松陰親子以外の序跋がないのか、そして「五つ目の不審な点」、若すぎる江木鰐水による行状書を載せるに至ったのも、あるひはそこに起因するものかもしれません。本書に引かれてゐる市島春城による後藤松陰への人格攻撃は、当否を措いてその例証でありましょうし、また「三つ目の不審な点」として挙げられた「人望の無い後藤松陰」による編集上の不注意については、かつて『山陽詩鈔』の編集においてもやらかしてをり、たまたま私が古本で掘り出した「後藤松陰手澤本」に於いて実例を示した通りであります。さても刊行に対する熱意も低下した所で、何かあったら簡単に差し替へができるやう、一篇ごとに版木を作ることで「四つ目の不審な点」ともなったのかもしれません。
果たして『山陽遺稿』に於ける不首尾の数々は、小竹・松陰親子の亡き頼山陽への友情・師弟愛が冷めてしまった怠慢による結果だったのか。
そもそも「衒気もあり銅臭もあり」と揶揄された松陰先生ですが、自身の別集を刊行しようとした形跡は無く、遺された詩も所謂口腹に関はるものが多い。その意味で岳父同様「富儒」と揶揄はされたかもしれませんが、如何にもビーダーマイヤー的な話題で占められた詩情からは、少なくとも承認欲求が強い利己的な詩人タイプでなかったやうに見受けられます。これは彼が詩稿の添削に当たった大垣藩士木村寛齋への助言にも窺はれるところで、かつてこちらも資料紹介しましたが、森田拙齋が伝へる「才あれども気足らず。然れども其人となり甚だ好し」といふ人物月旦通りの人であったと思ってゐます。
尤もこれはすべて村瀬藤城の評が天保六年にものされたといふ一事を信じた上での臆測に過ぎません。ちなみに評中にあります『古文典刑』は村瀬藤城が城之崎旅行中に急逝した翌年の嘉永7年に刊行されてをり、江木鰐水の行状書が附刻されることはありませんでした。