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子どもたちの笑顔を増やし続けたいと願いながら、大学生のキャリア教育に関わり続ける、ゆいなりの初等教育へのこだわり

お久しぶりです。ゆいです。今年も3/4を終えて、残り3か月。
この週末は、娘のはじめての運動会でした。ダンスにかけっこに玉入れに、友だちと楽しそうにしている娘の姿に成長を感じました。
その中でちょっと教育の話がしたくなったので書いていこうと思います。


実は、ゆいはもともと教育関係の人間です。それも、キャリア教育とかじゃなくて幼児教育を専門にしてきました。きっかけはたぶん、9つ下の従姉妹。無邪気に笑う顔と、お世話をすれば「ありがとう」といわれる環境がかけ合わさった結果、子どもと関わることが好きになりました。

そんなゆいが書いた小学校の卒業文集。「保育士になりたい」という夢。

今思えば、子どもと関わる=教師、という安直な考えだったと思います。当時のゆいにはそれ以外の選択肢が存在しなかった。でもいつの間にか、その夢が変えられないものになっていた、「教師」という手段に固執するようになっていた。

理由は、誰かからの視線をすごく敏感に感じていたし、子どもがかわいいと思う気持ちが変わらなかったから。「ゆい=教員を目指す人」という周りがもつ自分への認識が変わることが怖かった。あとはどこか、親への反発心もありました。薬剤師の親ふたりの後を追わない理由が、「子どもと関わる仕事をする」と言い続けることだったから。


大学に進学して、アメリカとデンマークとフィンランドの教育機関の視察に行き、日本とのギャップを実感しました。

アメリカの小学校
デンマークの森のようちえん
フィンランドの学校

「教育を変えたい」と思う人たちと関わるようになりました。その熱量を肌で感じて、「子どもたちのために」と考えられる大学の同期の言葉が、すごくあたたかいと思った。


当時、日本で公立の幼稚園も、私立で海外の教育観を取り入れている幼稚園もフリースクールも見に行きました。もちろん日本という環境の中で順応していくいことが必要で、海外のやり方をまるっきり取り入れることは難しくて。そんなことはわかってるんだけど。

でも、どこを見に行ってもどこか違和感が拭えなかった。先生の発言ひとつひとつが気になったり、目の前の子どもたちのこれからを考えるとなんか違う気がしたり。

一度、保育士をしていた時期がありますがその時に「現場で就職することは不可能だな」と感じました。その理由も、誰かの保育観の中で保育ができないと思ったから。集団を相手にすると、かけたくもない言葉をかけてしまう瞬間があり、その言葉を聞く時間が増えていくから。

昨日の運動会を見ていて、久しぶりにその感覚を思い出しました。
別に先生たちを批判したいわけでも否定したいわけでもなくて、これはゆいの教育観だから人によって違うというのは大前提ですが。


自分がもしこれから先の社会で子どもたちとかかわれる場所をつくれるなら、子どもたちが学ぶ場所をつくっていくチャンスがあるなら。ゆいは、子どもたちの好奇心が拡がり続ける場所にしたい。大人の価値観とか経験則で評価される場ではなく、事実に基づいて認めてあげられる場にしたい。

理由は、誰かからの評価を頼りに生きるとすごく生きづらいから。

ゆいはいまでは「偉い」とか「賢い」とかの言葉はすごくいやになりました。いやだから使いたくないと思いつつも、ゆいも娘に使っちゃう瞬間は存在してるのでちょっと悲しくなったりしますが。

偉いといわれてたら偉く居続けないといけない気がする。がんばってるといわれてたら、がんばり続けないといけない気がする。何気ない言葉がどんどん子どもたちを縛ってしまう可能性がある。
だからこそ、何か解釈をして目の前のひとを認めるんじゃなくて、その人の存在そのものを認められる人でありたい。認められている感覚を子どもたちには感じてほしい。

その上で、好奇心のままにいろんなことに手を伸ばしてほしい。

ゆいの思う大人がする努力は、勉強をする理由を与えることでも、勉強をさせることでもなくて。子どもたちの中から出てきたものと勉強をどうつなげるかを考えること。子どもたちから出てきたものから、一緒に勉強していくこと。そのきっかけになる好奇心の欠片を散りばめておくこと。

理想論かもしれない。そんな簡単なことじゃないかもしれない。
実際、集団を相手にする「教員」という仕事には無謀なことでもあるとは思っていて。それぞれからモチベーションを引き出すんじゃなくて、こっちからモチベーションを与えたほうが効率がいいこともわかってる。それが集団教育だということも理解している。


でも、ゆいはそれがしたいわけじゃない。
だからこそゆいは、家庭教育、という分野に手を伸ばしてみたいと思った。


家庭という、1対1で向き合う時間がつくれる環境で、子どもたちの好奇心を受け止めてあげられるような。どんなあなたでも素敵だよと言えるような。どれだけ壮大な好奇心も、馬鹿げたような大きな夢も、話せるような関係を築いてほしい、そんな親でいてほしい。

だからゆいは、5年後10年後の親になる今の大学生に関わり続けることを決めた。結婚して自分の思うままに親になれる大人を増やすために。その基盤を持つ大学生を増やすために。

どんなあなたでも素敵だよ、といえるような寛容さを持ちながら、うちの親ならどんな夢でも話せる、と思われるくらい夢を追いかけて楽しそうに生きててほしい。子どもたち以上に大人が夢に本気になっていてほしい。そんな大人で溢れているような環境を子どもたちにつくってあげたい。


子どもたちにとっての第二の家をつくりたい、という感覚は拭えないんだな、と改めて思いました。先生のもやもやする声掛けを聞きながら、そうじゃない場所をつくりたいなって思ってしまった。ゆいの理想とする環境で、子どもたちが彩とりどりの大人に囲まれて、自分の彩の欠片を見つけてほしい。家でも学校でもない、もうひとつの居場所。「ただいま」と帰ることのできる場所。

ここにいればなんとなく自分を受け止めてくれると思えるような。自分の「やりたい」という声を素直に表現できるような。そんなあたたかさを持つ場所。


ゆいにはあんまりこだわりがないなぁ、と思って生きてきたけど、子どもたちに届けたい環境に関しては人一倍こだわりがあるのかもしれないです。ゆいにはどうしても譲れないものが存在する。こだわりがあるからこそゆいは、直接子どもとかかわらない方法を選んでいる。

それぞれの親が自分らしく生きられるように。その親を見て子どもたちが成長していけるように。どんな時でもずっと一番近くにいる大人が、一番人生を楽しんでいるなと思えるように。

でも、やっぱり子どもってかわいいなと思うのも事実なので。
どこかでゆいのこだわりを守ったまま、子どもたちとかかわれるようなことも同時並行でできたらいいなと思います。


無限の可能性を秘めている子どもたちには、その可能性を拡げ続けてほしい。大人の価値観に縛られて、なにかの枠組みの中で生きないでほしい。自分というありのままの存在を認めて、心が動く瞬間を、心から楽しいと思えるものを追いかけ続けてほしい。

そんなことをふと思った、というか、ふと思い出した、娘の運動会でした。

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