も少し野性的に
昔に読んだ栄養に関する本に、「きゅうりはほとんどが水分で、これといった栄養はない」といったことが記されていました。
となると水分を補給する意味以外にきゅうりを食べる理由はなく、あるとすれば、単に嗜好品としてということになります。確かに、夏の暑いときの丸かじりは実に美味しい。現代のようにアイスだの、コーラだのがなかった時代であればなおさらでしょう。
しかし、「いや何かあるはずだ、水分としてだけでなく、美味しいだけでなく、きゅうりが存在する理由するが、きっと何かある」と研究を続けた人によって、
きゅうりはカリウムが豊富なため、ナトリウムの排泄を促し血圧を安定させる働きがあることや、きゅうりに含まれるマロン酸は糖から脂肪への転化が防止され、体脂肪の増加を抑制される働きがあるといったことなどが発見されました。また、ヘタの苦み成分であるククルビタシンに抗がん作用(とくに食道がん)があるのではないか、ということも言われてます。
当たり前ですが、「わからない」のと「ない」は同じではありません。「見つかっていない」のと「ない」も違います、まったく違います。
きゅうりを食べることに意味はない、きゅうりは食べるに値しないと、きゅうりを食べることを止めるか、それとも「嗜好品以外の価値がきっとある、この世に無駄なものはない」と思って、きゅうりを食べ続けるか。
分析したいのは人間の恒かもしれませんが、まぁ、きゅうりを食べなかったところで大勢に問題はありません。しかし、可能性を狭めてしまうのはもったいない。
動物は、○○に効くから、と頭で理解して食べているわけではありません。野生の動物のように、とはいかないまでも、いいものと、そうでないものを嗅ぎ分ける力(別に嗅覚だけでなくとも)を身につけられたらなぁ、と思います。
読んでいただきありがとうございます。よくも悪くも、頭使い過ぎかな。