もう平気だ、と思っていたんだけど
大きな窓からの夏の日差しが、病院の待合廊下に遠慮なくふりそそがれている。廊下にもロビーにも、見渡す限り誰もいない。
保育園児の運動会なら充分にできるくらい、無駄に広いロビーだ。
冷房が効き過ぎて、娘の腕が冷たくなっている。ガーゼのブランケットを忘れてきたので、よだれを拭くためのフェイスタオルをカバンから2枚出して、娘にフワッとかけた。
娘の気管切開した部分がゴロゴロいうので、喉に繋がれている人工呼吸器を外して気管切開部から痰を吸引をする。
ストレッチャーの車椅子の上で横向きになっている娘は、痰がすっきりしてホッとした表情になった。
また呼吸器を繋ぐと、閑散とした院内に、機械的な娘の呼吸音だけが響き渡る。
3年前の7月、この日は娘の定期検診で、私は娘をかかりつけの病院に連れてきていた。まだマスクが必要ではなかった頃のことだ。
毎月通っているこの病院は療養型なので、一人ひとりの診察時間が長くて、なかなか診察が進まない。
「今日はかなり時間がかかるなぁ」と思いながら、つけっぱなしの壁掛けテレビの情報番組を、私はぼんやりと眺めていた。
そこに、車椅子のおばあさんと付き添いの娘さんらしき初老の女性がやってきて、少し離れた待合の椅子に女性が腰掛けた。
ふっくらとしたその女性が、車椅子のおばあさんを「母さん」と呼んだので、やっぱり親子なのだと思った。
来てすぐに、おばあさんは奇声を発しながら、体を前後に揺らして、ロックをかけていない車椅子をカタカタ動かし始めた。
「もう、動くな!じっとしとんなよ。」
「母さん、うるさいな!騒ぐなって!」
娘である女性は、母親に対して大声でずっと怒っている。実母なのか、義母なのかわからないが、もう少し優しく言えないものかと、私は不快に感じていた。
ふいに、怒鳴っていた女性がおばあさんに向かって、耳を疑うような言葉を言い放った。
「おい、見てみな!あんたもそのうちに、あの子みたいになるわ。」
明らかに私の娘のことを言っている。驚いたが無視して、とりあえず聞き流した。
おばあさんは、さらにキーキーと声をあげ、車椅子の上で前後に激しく体を動かしたので、1メートルほど車椅子が前に進んだ。
「じっとしとれって言っとるやろ!あんな風になりたくなかったら、おとなしくしな。」
まただ。
完全にカチンときたが、わざわざ口論するのもどうかと思い、私は怒りをぐっとおさえた。
あの女性は、普段から母親を叱っているのだろうか。
他人の前でも怒鳴るのだから、家ではもっとひどいのだろうか。
公共の場で不謹慎な言葉を平気で発してしまうのは、どういう神経なのだろうか。
次々に疑問と憤りが込み上げた。
何を言われてもずっと笑顔でいる娘を見て、なんだか無性に泣きそうになる。言葉を理解ができない娘でも、言葉に込められた何かを感じているだろうに。
でも泣くのは負けだと思った。
怒るのも負けのような気がした。
娘の頭を撫でて、ようやく私は心を落ち着かせた。
*****
現在24歳になる私の二女は、生まれつきの筋肉の病気だ。成長とともに筋力が低下し、数年前から人工呼吸器に頼りながら寝たきりで過ごしている。
言葉を理解することも声を発することも難しい子だが、笑顔でやりとりができるし、私にとっては愛らしい娘だ。
それでも、だらんとした姿勢で車椅子に乗る娘は、これまで何度も、見知らぬ人から心無い言葉を言われたり、じろじろ見られたりしてきた。
「この子、死んでるの?」と、幼い子から数回言われたことがある。
お子さんにとっては、娘がただ珍しかったんだろう。
「生きてるんだよ。おめめを開けてるし、笑ってるでしょ。」
と、私は丁寧にお子さんには話すようにしてきた。
保護者の申し訳なさそうな顔にも、笑顔で「お気になさらず」と言えた。
「小さな子どもは素直な気持ちで、娘に興味を持ってくれただけ」と思えたから平気だった。
年配の方に多いのは、舐めるようにじーっと娘を見つめること。「あれあれ、かわいそうに」とおっしゃったり、「この子、どうしたん?」と訊いてくださったり。
それにも、笑顔で対応する。
本当にかわいそうにって、思ってくださるのだから、私は平気だ。
「この子は神様の子よ」って、見ず知らずのお婆さんに泣かれたこともある。そのときはさすがに私も泣いてしまったが、それはありがたい言葉だと思ったから泣いただけ。
実際には、「見てはならない」と視線をそらして通り過ぎていく人がほとんど。
それも、わかる。
同じ立場なら、私も多分そうしてしまうだろうから。
きっと、これまでに娘のような子と関わったことがなくて、見たら失礼かなと思ったり、どう声をかけていいのかもわからなかったりするんだろう。ただそれだけなんだと思う。
ほとんどの人が、いじわるな気持ちを持っているわけではない。
知人だろうと、知らない人だろうと、相手のどんな態度や言葉にも、私はわりと平気だった。
正直に言えば、平気なふりをしてきた。
「平気な自分でいること」が、母親としての意地だった。
それでも相手の言葉に勝手に傷つき、何かとついつい比較して、こっそりといっぱい泣いてきた。心無い言葉は、身内から発せられることもある。
そんな、もがき苦しんだ日々を重ねて、「ふり」をしなくても平気になった(と思っている)現在がある。
誰にどう思われようとも、生まれたときからずっと娘は可愛い。
たとえ顔や体が変形しようとも、自慢の娘に変わりはない。
「見て見て!うちの娘、かわいいでしょ!」くらいの気持ちで、私は娘をどこへでも連れ出してきた。
しかしこの日の、病院での女性の言葉に対しては、平気でいられなかった。
家族を守ることにおいては、私も彼女も同じ立場。
それなのに「静かにしないと、バチが当たって娘のように動けなくなる」とも取れる発言は、娘にも、娘の病気にも失礼過ぎる。
だが、考える。
あの女性は一人で母親のことを背負っているのだろうか、と。
子どもの介護と親の介護では、介護する側の想いがそもそも違うことは、よくわかる。私の娘との日常と、彼女の母親との日々を照らし合わせることはできない。
悲しい母娘関係を想像し、胸が痛くなった。
母親を支えている彼女の心が、壊れかけているのかもしれない。
*****
看護師さんが処置室の扉から出てきた拍子に、女性と目が合った。
「あんたも大変やな。その子を世話するのも嫌になるやろ。」
と、眉間に深い皺を寄せて、彼女は私に話しかけてきた。
女性は化粧っ気もなく、髪も乱れて、とても疲れた顔をしている。
私は、すかさず応えた。
「いいえ、娘がすごくかわいいので、ちっとも大変じゃないですよ。一緒の時間がとっても楽しいです。」
ずいぶん前から用意していた模範回答のような「反論」を、咄嗟に引きつった笑顔で言った。
女性はきまり悪そうな顔をして、その後はおばあさんを叱らなくなった。
私はちょっとだけスカッとして、ちょっとだけ彼女に申し訳ない気持ちになった。
私は嘘を、いや、きれいごとを言ったのだから。
子育ては、大変なことが当たり前。でも嫌じゃない。大変が楽しいのだ。
手をかけてやれることが幸せなのだ、と私は思っている。
「大変ですけど、全然嫌じゃないんです。」と言えばよかったかな、と後から考えた。
それに、彼女に「あなたも大変ですね。」と言ってあげればよかった、と思った。
その言葉が優しさの連鎖になることを、私は知っているから。
またおばあさんが大声を出すと、女性は
「静かにしなよ。あの子が起きてしまうやんか。」
と、娘を気遣うような言葉を言って、穏やかにおばあさんを諭した。
私は、彼女のなかにある「愛」に安堵した。
が、また少しモヤッとする。
「あのー、娘は寝てないんですけどー。」
と、女性の背中に向かって、今度は口パクで言い返した。
娘は満面の笑みで、そんなビビリな母を見上げていた。
そういえばあの日以来、病院であの母娘に会ったことはない。
お元気だろうか。
幸せに暮らしておられるのだろうか。
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