つまずきの連続だった子育ての先に
「私は就職しても小児の担当にはなりたくないわ。お母さんみたいな親が怖いから。」
約8年前、長女にポツリと言われたその言葉が、ずっと私の頭から離れなかった。
その時の私は返す言葉がなくて、「そうだよね。」と答えた。
当時の彼女は大学4年で、リハビリの先生を目指していた。
二女のすべてに対して必死過ぎる私の姿が、長女には「怖い母」に見えていたのかもしれないと思った。
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二女が未就学児の頃
二女は筋肉が壊れていく難病で、身体だけではなく知的にも重い障がいを持っている。生まれた時から筋力がかなり弱くて、どんなにリハビリを頑張っても、寝返りやお座りもできず、首が座ることもなかった。
二女は現在26歳になり、人工呼吸器をつけながらほぼ自宅のベッドの上で過ごしている。
二女を育てながら、長女の時と全く違う彼女の成長に私はひどく戸惑っていた。親が何をしてあげればよいのかが全くわからず、自分を責めるように毎日を過ごした。そんなときに親子で通う療育施設を主治医に紹介されて、私はすがる思いで、二女を連れてその施設へ通い始めた。
施設ではからだや言語などの訓練を受けることができた。娘の言語訓練の担当になったリハビリの先生は、長身で口数の少ない、若い女性だった。
私はこの先生のリハビリに疑問を持っていた。
リハビリには親も同行する。
私が娘を抱っこしながら訓練を受けるのだが、先生は娘に何をしたらよいのかわからずに、迷っているように見えた。
しかし先生は私に何かを訊くわけでもなく、無表情で淡々と、娘に遊びの延長のような働きかけを繰り返していた。
おそらくそのリハビリは、言葉を持たない娘が自分で意思表示できるように、まずは人との関わりを楽しむ練習をしていたのだと思う。しかし、娘のレベルに全く合っていないようなことばかりをやっていて、私はいつもモヤモヤしていた。
例えば、カードを使った遊び。
当時の娘は、「音の鳴るおもちゃを見せるとそちらを向く」という程度が、能力的に精一杯だった。それでも先生は「くつ」と「はぶらし」の絵が描かれたカードを娘に見せて、「くつはどっちかな。」と尋ねる。
娘はそもそも靴を履いたこともないし、言葉の意味もわからないので、いつもよそ見をして、最後には泣いてしまう。
私は毎回、不完全燃焼のような後味を感じながらリハビリ室に通っていた。
そんなある日のこと。
訓練の時に、先生が勉強会に行かれたという話を私にされた。娘のような低緊張の患者さんについて学ばれたらしい。
ありがたいなぁと思って私は素直に嬉しかった。
その勉強会では、『筋力がない人の気持ちになって寝転んでみる』という体験をしながら、どんな気持ちになるのかを実際に感じてみたそうだ。
「なんだか眠くなって、やる気がなくなって、あきらめるような気持ちになりました。だから、二女ちゃんも、いつもそんな気持ちなんだなぁって、よくわかりました。」
と先生はさらりとおっしゃった。
私は怒りに震え、言葉が出なかった。
やる気がないってどういうこと?
娘はやる気いっぱいで、ほんとうはなんでも触りたいのに、思うように動けなくて触れないのだ。
なぜ、先生にはそんな娘の気持ちがわからないのだろう。
「やる気のない子どもなんて、この世にいない。子どもは興味の塊じゃないか!」って叫びそうになるのを堪えて、私は娘を抱いて訓練室を飛び出した。
療育施設の空き教室に飛び込んだ私は、娘の右手を握りながら、怒りと悔しさでポロポロ泣いた。
当時の娘は、寝転びながら右手を口まで持っていくことができていたので、右手の人差し指の第二関節あたりを、いつも噛んで怒っていた。
さわりたくてもさわれない。
そんな、自分の欲求通りに身体が動かないことに、娘はわからないなりに強いストレスがあったのだろうと思う。
人差し指の赤く腫れ上がった噛みダコは、娘の悔しさそのものだ。
私は自分の感情を抑えきれず、そのまま施設長のところへ行き、リハビリの担当を他の先生に代えてほしいと訴えた。
基本的には変更できない決まりなのは知っていたが、失礼を承知で気持ちをぶつけた。非常識な親だと思われても構わないと思った。
でも結局変更できず、私はその施設で言語のリハビリを受けることを諦めた。娘にとって大切な訓練だと思うが、あの先生と関わることがどうしても嫌だった。
自分の気持ちを直接リハビリの先生に伝えることすらしないまま、その後私は、先生と一切話さなかった。
そしてしばらくして、その若いリハビリの先生は、勤めていた療育施設だけでなく、セラピストも辞めてしまった。
それを知り、私はチクリと胸が痛んだが、自分が悪いとは思えなかった。むしろ被害者のような気持ちでいた。
だから、先生とのやりとりも自分の行いも忘れようと思った。
この時期の私は、義母から「あなたは二女に対してノイローゼだ」と言われるくらいに、まわりが見えていなかった。
そんな狂ったような母親の姿を、二女より3つ年上の長女は黙って見てきた。
二女の特別支援学校時代
二女が特別支援学校に入学してからも、相変わらず私は、二女にとって何がベストかを求めながら、二女の体調を維持するために一生懸命になっていた。
特別支援学校や病院でも、娘のリハビリの先生に何人も出会ってきたが、皆、私の疑問や知りたいことに丁寧に答えてくれて、どの先生も娘や私の気持ちを汲み取ってリハビリをしてくださった。
それはおそらく、私が「今の娘の状況」や「娘のリハビリに何を望むのか」を先生にはっきりと伝える力がついてきたことも大きいと思う。
熱心にリハビリを見つめる私に、先生たちも強い圧を感じていたはずだ。当時を振り返ると、常に前のめりになっている自分が恥ずかしくなる。
二女の小さな変化に神経を注ぎながら、アンテナを高くして情報をかき集めていた私は、二女の学校行事や勉強会、交流会に長女も連れてよく出かけていた。
そんな時の長女は、あまり楽しそうな顔をしていなかった。
きょうだいへの気遣いはしてきたつもりだが、うまく気持ちを口に出せない長女が何を思っていたのか、私は察することができなかった。
だから長女が大学生になり、リハビリの先生になることを目指し始めた時、嬉しいけれど長女に何かを押し付けてしまったような、そんなざらりと苦い気持ちになった。
二女が特別支援学校を卒業してから
二女は特別支援学校を卒業してすぐ、気管切開の手術をした。その頃から、二女はさらに出かける機会が減った。ベッドの上で長い時間を過ごす毎日だ。
動くことや食べることができなくなり、気管切開をして声を出すことまでも奪われ、緑内障で視力も失ってしまった。
よく聞こえているのに自分から働きかけることができなくて、ただじっと、誰かからの働きかけを待つばかりだ。
久しぶりに会ったママ友に、そんな二女の近況を伝えたとき、
「二女はずっとリビングのベッドの上にいるだけだから、いろんなことをあきらめていると思うわ。」
と自分の口から「あきらめ」という言葉が出て、びっくりした。
その瞬間、私は、あの日先生が言っていた勉強会の感想を思い出した。
二女は明らかに「あきらめる」ようになってきている。「やる気がなくなる」とは違うけれど、悲しいくらいに穏やかに、見えない目を開けて音や気配を感じながら、膨大な待つ時間を静かに過ごしている。
先生が言っていたことは、全くの間違いではなかったと思った。
ちょうどその頃に長女は大学を卒業し、あの先生と同じ、言語聴覚士というリハビリの先生になった。
当時の若かった先生と新米先生の長女を重ね、自分がモンスターペアレントだったのかもしれない、と思って怖くなった。
私は先生に自分の疑問も要望も何ひとつ言わず、まだ若い彼女に完璧を求めて、彼女の迷いに寄り添おうとしなかった。経験の浅かった先生は、ただ言葉足らずで不器用だっただけなのだろう。
先生は勉強して資格を取り、小児のリハビリをやろうという想いで娘たちの施設に来られた。その気持ちに、私はもう少し感謝が必要だったと、何年も経ってようやく気付いた。
言い訳のようだけど、深い絶望から前を向こうと頑張っていた若い自分にも、寄り添ってやりたい気持ちになった。
当時は私も迷いの中にいて、自分自身も精一杯で、相手を想うゆとりがなかったのだと思う。
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長女は働き始めて5年後、小児の担当になった。
それを知って驚いている私に、
「子どもって可愛いし、なかなか楽しいわ!」
と言って、彼女はカラッと笑った。
母を越えていったなぁ、と思った。私はそんな長女が、泣きそうになるくらい眩しく見えた。
そして少しだけ、自分が許されたような気がした。
ここ数年で二女の病気はさらに進み、ますます人と会う機会が減った。
彼女にとって、リハビリの時間は至福の時だ。
現在は、リハビリは主に訪問に頼っているのだが、魔法のような手が、体だけではなく娘の心もほぐしてくれる。
先生たちの語りかけに嬉しそうに笑う二女を見ていると、私の心もほぐれていく。
これまで二女に関わってもらったリハビリの先生を数えてみた。
現在お世話になっている3人も含めて、39人。なんと、まさにサンキュー!
たくさんのセラピストの手や想いが、今の娘の健康と笑顔に繋がっている。
そのことに感謝を忘れない親でありたい。