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静物としての街とその温度について
また一つ、温度のなかった場所に温度を感じることができるようになった。
街を歩いているときに、自分が街を構成する一要素であることを考えながらも、一方で、客体として街を俯瞰して見ることが増えた。街は流動的でありながらもその実態を保ち続けている。街を街たらしめる何かをそこに宿し続けている。街は、不可逆的だが再現性のある揺らぎをもってそこに存在している。
信号待ちをしている親子がいる。
犬の散歩をしている50代くらいの男性がいる。
路線バスからは老夫婦が下車してきた。
動かない建造物と流動的な動物、風に揺れる植物、刻一刻と変わる光。
街は混然としているようで、整然とその形を保っている。
そこには、謙虚な態度としての街の体温がある。
冷たいや温かいというだけでは、推量できない温度がある気がする。
そのとき自分が「静物」として街を切り取っているのだと、ふと気が付いた。
中村彝の「静物」という絵画がある。
色っぽい深紅の林檎が洋風のお皿の上に盛られ、その下には雑然とクリーム色の敷物が敷かれている。絵画であるから当然動きはしない。けれど、なにか流動的な揺らぎを思わせる表現がある。林檎が静物でありながら、自己の存在を強く主張しているような面持ちもある。静物画の魅力を初めて体感した絵画だった。彼の作品群は、どれも暗澹たる面持ちではあるが静謐さを湛えていると思う。彼の生涯を考えれば彼の作品がそうなっていることも納得できる。
彼の作品を見ていると、小津安二郎の「東京物語」や今泉力也の「街の上で」、燃え殻の「断片的回顧録」、ビル・エヴァンス・トリオの「My Foolish Heart」を思い出す。どの作品も退廃の美があるし、funnyな側面も持ち合わせている。そしてなにより、静けさをもって日々が、街が、時間が動き進んでいると思わされる。それが心地良い。
静物として街を見ることで、何もない街に何かを感じ取ることができるようになった気がする。刻一刻と変わりゆく街並みにも、変わらないものがあり、静かに変わっているものもある。生物と建物と天気をマテリアルとして街を作り、また街を壊す。この微かな変化に体温を感じる。街の体温を感じる。
また、散歩が楽しくなった。