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【短編小説】モウ一度 花言葉ヲ #うたすと2
(1986字)
「人形工房 メリィゴゥランド」と書かれた看板は灰を被ったかのように黒く汚れている。
工房の中で、男は完成した人形のゼンマイを巻いていた。
キリキリ……キリキリ……
あの日からずっと、心の中で雨が降っている。
初めはうるさい鉄砲雨だったが、いつの間にか音のない小糠雨に変わっていた。
だが、男にとってはどうでもいい変化だ。雨の向こう側が見えないのは同じことだから。
キリキリキリキリ!
半分ほど巻き、はっとして手を離した。
意識を集中しないと力任せにネジを回してしまう。ゆっくりと息を吐き、もう一度ゼンマイのネジに触れた。焦る気持ちを抑え、ゆっくりと、少しずつ巻いていく。
キリキリ……キリキリ……
慌てず、慎重に、力を入れすぎないように。
キリキリ……キリ。
ネジが止まった。男は改めて人形の姿を確認する。
こがね色に輝く髪と瞳、色素の薄い肌、妻と同じ大きさに作ったその身体は、品よく椅子に腰かけている。真夜中の暗い場所なら、本物の人間だと錯覚しそうな出来栄えだ。
今度こそ、今度こそ君に会いたい。
ゼンマイが逆回転を始めると、人形はゆっくり立ち上がり正面を見据えた。そのまま口を半開きにし両頬を高く持ち上げ、少しだけ首を傾けている。
「違う……違う違う! 彼女はそんなふうに笑わない!」
男が妻に似たその物体を思い切り突き飛ばすと、
物体は後ろの椅子にぶつかり、衝撃で身体の部品が散らばった。
ひとつのネジが、窓辺のクマに当たり床に落ちた。そこには、妻と同じ顔がいくつも転がっていた。
ゼンマイが回っている限り、人形は動き続ける。倒れたまま足踏みのような動きをし、何度も立ち上がろうとしていた。
キリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリ
耳に、ゼンマイの音がこびりつく。男が咄嗟に窓を開けると、目の前に暗い庭が現れた。誰も手入れをしていない、ただの荒れた庭だ。しばらくぼうっと眺めていると、薄っすら赤い光が見えた。
いや、違う。これは月に照らされたアマリリスだ。
ああ。今はもう、何の香りもしない。
「アマリリスか。大きくて元気な花だね。君にそっくりだ」
「まぁ本当? 嬉しい!」
妻の目が宝石のように輝いた。
「アマリリスは私の誕生花なの。生まれた日のお花」
「へぇ。誕生花なんてあるんだ」
妻は頷き、「子どもの頃に教えてもらったの」と答えた。
「それは……あの花屋の主人に? 幼馴染の」
「そうよ。今はぶっきらぼうだけど、昔はよくお花のことを教えてくれたのよね」
妻は、そっとアマリリスの花弁に触れ、懐かしそうに目を細めた。
「ふ、ふぅん……そ、それにしても、アマリリスっていい匂いだなぁ! 甘いお菓子みたいだ」
男の言葉を聞き妻は不思議そうな顔をしたが、すぐにフフッと笑みをこぼした。
「このアマリリスには香りがないの。甘い匂いは、今オーブンで焼いているクッキーよ」
小さな庭で二人の笑い声が響いた。
「誕生日おめでとう」
「わぁ! スズランの花束! 綺麗……ありがとう」
「これから毎年、君の誕生日にはスズランを贈るよ」
「あら、どうして?」
「スズランも君の誕生花なんだって」
妻はスズランを眺めてフフッと笑う。
「これから毎年、誕生日には幸せがやって来るのね」
「僕は君がいれば幸せだよ」
「私もあなたがいれば幸せだわ。あのね、スズランの花言葉は――」
目を覚ました男がいたのは、人形の死体が転がる暗い部屋だった。
よく手入れされた美しい庭やスズランの花束、愛しい彼女の姿はどこにもない。
ガコン!
自宅の方から大きな物音がした。
来客か? こんな夜中に?
男は作業台の携帯ランプを持っていこうとしてやめた。今なら暗闇に目が慣れている。月の明かりで充分だろう。
庭を通って玄関へ向かうが誰もいない。風? それとも夜行性の動物でもいたのだろうか。
無駄足だった。ため息をつくと、ポストに溜まっている新聞が落ちた。
男は億劫そうに新聞を拾い上げる。
妻が亡くなって以来、彼女を模した人形制作にすべてを費やしてきた。こんなもの読む時間はない。新聞屋には、もう届けるなと言わなければ。
ふと、男は拾った新聞に目をやった。
小さな花の写真と『今年も教会にスズランが咲きました』という一文が飛び込んでくる。裏面の地域情報、読者が投稿する”お知らせ欄”だ。
――あのね、スズランの花言葉は「もう一度幸せであれ」なのよ――
夜の光は有明の月へと姿を変えていた。
男は新聞を投げ捨て走りだす。明け方の薄い光が、教会のある丘までの道をそっと浮かび上がらせた。
今日は5月28日――彼女の誕生日だ。
丘の上には誰もいない。
教会と、スズランに囲まれた小さな墓があるだけだ。
徐々に青くなっていく空の下。
まだ少し冷たい空気が、息を切らした男の傍を通り過ぎていく。
静かに佇むスズランたちが揺れた。
こちらの企画への参加作です。
お二人の曲を聴き、自由に創作をするという企画です。
よろしくお願いします!