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頭の中で言語化されている

書きたいことがない時は、書きたいことがないことを書けばいい。と初めて言ったのは多分ブックカフェで、広島に住んでいる僕らに会いに来てくれた方に言ったような気がする。

僕は小学校の頃から文章を書くことが好きで、本を読むことはほとんどしていなかったけど、何故か作文だけはもりもり書くことができていました。それが何故か?と言われたら全くわかりませんし、どうすれば良いかも分かりません。

先ほどは県外から何度も珈琲いいかげんにも来てくださり、さらに親友がやっているブックマンにも行くすごい行動力の方が来てくれました。遠方からわざわざ目掛けて来ていただけること嬉しく思います。

文章を書きたいと思っても、言語化が難しい。
そもそも言語化ってなんなのでしょうか。
頭の中でぐるぐる回っているあの思考こそ、言語化されている言葉だと思っています。僕が勝手に思っているだけですが、生きているだけで思考し続けている気がして、それは口から音として出る以前に、脳みその中で宇宙規模の言葉がたくさん言語化されている。そう信じています。

例えば今日はお好み焼き食べよーって頭で考えたとするじゃないですか。それはもう立派な言語化だと思っていて、口に出していないだけ。運転している間も赤信号になりそうでブレーキ踏んだりするじゃないですか。あれも「赤信号になりそう」と頭で思ったからこそ言葉になっているような。なんかそんな感じじゃないですかね。

それでもやはり文章にするというのは難しいのかもしれません。僕も今こうして書いている文章は文として成り立っているかどうかわかりませんし、言葉の使い方も間違えている箇所がいくつもあるはずです。こうして書いているとあ、ここってちょっと書き方変えようかな?と思ってみますが正解の書き換え方を知らないために、そのまま世に発信してしまいます。発信することでたまに、指摘いただくこともありますし、全く内容とは関係のないコメントも来ます。でも僕自身で発信している言葉、投稿、全てに言葉がちゃんと乗るのではないでしょうか。例えば文章になっていなかったとしても、自分が撮った写真には思い出が沢山詰まっている。それは写真を見た側からは全然わかりませんが、撮った人が見たらここであれがあって、何を食べて。覚えている限り話せるはずです。話さなくてもいい。書かなくてもいい。多分全ての言葉は頭の中にあります。なので書ける時が来るまで書かなければ良いと思いますし、書きたいと思ったら何か日記のようなものでも1行でも書けたらそれで良い。良いと自分に言ってあげられたら、多分スッと書けるようになる。そんな気もします。

何をダラダラ書いているのか。それでも思ったことをここに書き留めておくことは大切なことのように感じていますし、日々書くことで自分にとっての薬を服用している気もします。

今日は過去最高の7:00〜15:00まで珈琲の注文は0でした。1人常連さんが入ってきてくれましたが、美味しい焼肉屋さんを教えてくれてそのまま帰っていきました。僕はその時に売り上げがないなあと思うかと自分でも思っていましたが、これは庄野さんの本に書いてあった、売上は0でもお客さんは店に入ってきてくれます。が現実になった!そう思えたので読書も最強ですね。そのあと先ほど書いた通り、遠方から来ていただけましたので本日も0を喰らわず。奇跡のような毎日ですが明日から3連休。楽しんでやっていきます😆

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