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11/30雑多な部屋はお嫌いですか

おはようございます。
わたしは、物が少ない部屋が好き。
ミニマリストなんて流行る前からすき。
あと、正直、ミニマリストの隆盛期は終わったと思う。
これからはミニマルで身軽になった身体と物とお部屋に、どんな好きなものを置くか、どこへ引っ越すか、どう暮らすかを「大人」となって選べるようになったのだと思っている。

なぜミニマリストが流行ったかというと、それだけ、「家」がなくなってきたんじゃないかなって思う。家っていうのは、イメージ的に地方にあって、いろんな思い出のものを置いていけるところ。

脈々と受け継がれていくから、あの人のものとかあの人が使っていたものとかで捨てられなくて、片付いてはいるけど思い出が蓄積された場所。

わたしも実家があった。わたしが描いたたくさんの油絵。食器。まだ歩けるかどうかという段階なのに父がわたしを可愛がり購入した白い革靴。あれはアンティークと言える。お箱もちゃんととってあって、靴紐もちゃんとあった。あれは今どこにいったんだろう。捨てられたのかな。家自体がなくなってしまってもうわからない。
愛された記憶と物がたくさんあって、わたしは以前は、「家」の夢を幾度もみた。

何度もなんども繰り返し、実家の夢をみた。

実家から残せたものは少ない。しょうがない。実家はなくなることが決まっていたのだから。じゃんじゃん欲しい方に譲った。フリマアプリがあって助かった。きれいに磨いて、その当時からアルコール除菌をしていたので、きれいにアルコールで拭いて、使い古しではなくホームセンターで購入した段ボールに詰めて、次の「お家」に送り出した。

東京に住んでいたわたしの部屋は狭かった。そのおかげで物を置かなかった。とても少なく生きてきた。大きなものといえばベットぐらいだった。TVも処分した。実家から残したものはあまりに少なかった。時おり、あれを残しておけばよかったと思い出すことが幾つかあるけど、仕方がなかった。物も思い出も置く場所がなかった。部屋にも心にも。

今、田舎に住んでいるわたしの部屋はかなり雑多に思える。以前は収納できるところにいろいろときれいにしまっていたけれど、なんとなく汚染恐怖を感じてしまって取り出して拭いたりを繰り返すようになって、棚などにいれるのを最低限にすることにした。

なので、新品の普通ならベランダとかに置いて、灯油タンクをいれたりする物いれを購入して、買い置きのシャンプーやジャムやいろんなものをいれています。

でも入れると良くないものもあって。
前はずっとクローゼットで今のアパートで初めて押し入れをつかってて、雪国の湿気を知っていたけれど、やつらはわたしが思っていたよりもひどく、昨年は押し入れがカビだらけになってしまっていて(必ず戸を開けっぱなしにしたり換気に気をつけていたのに)

そうこうしているうちにこれは綺麗なのか、これはどうなのかとわからなくなるものが出てきて、出したり拭いたり捨てたりして疲れてしまった。
なので性格的にぜんぶきれいに畳んでしまうタイプなのに、いまは畳んで重ねておいてある。結局、整理したぶんだけ触ったところが増えて気になるから、きちんきちんとしていない。雑多なほうが強迫観念がでたときの被害が少ない。ここらへんはわたし独自の思考なのでなぞですよね。ごめん。

でも最近、ちょっと雑然としたお部屋に疲れてきちゃった。ぴちっとパシッと物をしまいたい。物がない部屋にいたい。ずっと部屋にいるからこそそう思う。これは冬になって、灯油ストーブに、電気ストーブ、こたつ、ホットカーペットとかをだしておかざるおえなくなってしまったからも大きい。
夏はもうちょっとすっきりしている。

昨日、わたしはひさしぶりに、わたしが私でなければいいのにと思った。長く付き合いのあるネット上の親しい人に、話すのが億劫で、そして怖いって言われたから。話すのが怖いは、私のなかでトラウマな言葉だ。私が1か100の性格になってしまうからだろう。元からそうだし、鬱になるともっとそうなるし、なんでそうなの?と調子が悪いと思ってしまうのだ、特にそのひとのしっかりした考え方が好きだったから、しっかりはっきりしないことがあると許せなかったのだと思う。許せないって強い言葉だよね。なんか、カチンとくるというか、オイって思っちゃってたんだと思う。自分のせいだけど、そこまで相手はそんな深い意味ではなく、ちょっと進んだ関係に駒を進めた私が、やりすぎてしまっただけなのだ。それを指摘しただけ。でも過去と習慣的に結びついちゃってショックだった。友人や妹に、死にたいと死のうとしたことそれらの時期のやりとりから、話すのが怖いといわれたのと結びついてしまったのだ。

ずっと病気を知っている人としか、医療に従事されている人としか関わってこなかった。ネットもnoteを読んでくれる方だったから、もし現実で人とあったり関わったりするときは、その人にカミングアウトしなければならないことが幾つもあって、そうすると、その数が多いほど、知り合いになった人を失う可能性と、「わたし」が傷つく可能性があるんだ。

傷つきたくない。まだ耐えられない。気持ちを切り替える術をもってない。
今、どうにか仕事してご飯食べて、少ない交流でなんとか生きているけど、たまにしんどくはなる、さびしくなる、文鳥がてのひらにいてくれたらと思ったりする。誰かに文章でいいから甘えられる、そうしていいひとがほしいとおもってしまう。

雑多な部屋は好きですか
お嫌いですか
わたしは新しい生き方と、新しい雑多なへやで
なんとか生きています

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