明日死ぬ夢
をみた。時間的にはあと一日は生きられないかなーくらいの感じ。
久しぶりに死への恐怖が呼び起こされた。それもこの夢をみている間だけで、目が覚めたら「あー良かった、まだ死ななくていいんだ」となったけど。
ただ、夢をみてるときは流石に焦っていた。焦りと無気力に襲われた。なにせ明日(もしくは今日)死ぬんだから、何をしたって仕方がない。言葉にすれば陳腐なニヒリズムだが、でも間違いない感覚だ。
言うまでもなく、これは現実にも適用される。タイムリミットまでの長さが一日か数十年かの違いはあるが、構造は同じだ。私たちは日々様々なことに没頭して、そのことを気にしていない(頽落)。
しかし、実際に死そのもの、あるいは死んだ後を経験した人はいない。あるいは少なくとも、その経験を伝えられる人はいない。だから、「死は存在しない」ということになる。それでも、問題は解決しない。論理的に死が存在しないとしても、「死がある」という感覚は消えないからだ。死がないとすれば人間は死なないはずだが、そう考えている人がどれだけいるだろうか?
だから、「死への存在(在り方)」が問題になるということは、たしかにその通りだと思う。
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