小説『闇に堕ちにて、空に溶けゆく』9/17(火) 【第49話 起伏】
暫く、翔の優しい温かさに包まれたかったが、
その日、翔は早く帰らなくてはならない事は
知っていた。
翔をいつまでも引き留めてはいけないと思い、
気持ちが落ち着かせ、翔の胸から顔を離した
そして微笑んで、翔に言った。
「ありがとう、翔。私は、もう大丈夫だから。
ほら、早く帰らなきゃダメでしょ、今日は。」
それを聞いた翔は、まだ大丈夫と言ったが、
私は大丈夫だから、と言った。
今日は楽しい事と、嫌な事が交互に訪れる、
起伏ある一日だと思った。今日の残りの時間、
楽しいことばかりとは言わないが、これ以上、
嫌なことがなければいいなと、漠然と思った。
ただ家に帰るとそうはならなかった。
帰宅してリビングに行くと、
母がウィスキーを手に持ち、酩酊していた。
母は離婚してから、こうやって、昼間から、
酒におぼれることが度々ある。
私は「またか」と思ったが、
言って直る事はないともう諦めていた。
酒に酔った母が、私に暴力をふるったり、
物に当たったりすることはないので
実被害はない。ただ、酔った母は延々と
別れた父に対してや周囲に対しての
愚痴や恨み事ばかりを言う。
私にしつこく同調を求めてきたりしないのは、
不幸中の幸いだが、母親のそんな姿を見れば、
誰だって気分が落ち込んでいく。
母親がその日家事をしそうにはなかったので、
干してある洗濯物を取り入れ畳んだ。
その後は、自分の部屋に入った。
こんな時は、普段なら翔との動画を見ると、
気持ちを切り替えられるが、帰りに会った
七海が書いただろうコメントの事を思い出し、
それをやめた。
何か目的があったわけではないが鞄を開けた。
そこに、以前、学校の最寄り駅でもらった
タウン誌を見つけた。
タウン誌と言っても見開き5ページぐらいの、
チラシに毛が生えたようなもので、
中身は店舗のクーポンがほとんどだった。
翔と打合せできるような、カフェないかなぁ?
という気持ちで見てると、最下段にあった
ある広告に目が留まった。
Fullmoon Hypnocisセラピーと書かれてる。
決して英語が得意なわけではないが、
Hypnocisという単語が催眠術を意味している
ことは知っていた。
セラピーという言葉と合わせて考えてみれば、
催眠療法というものだろうと予想はついた。
そういえば翔が以前、説明してくれた企画に
催眠術に纏わるものもあったと思い出した。
ただ翔が説明した中でも、この企画はまだ
フラッシュアイディアの段階のものだった。
動画に繋がるかもしれないという興味もあり、
何気なく広告欄のQRコードを読み込んでみた。
すると「Fullmoom Hypnocisはクレストムーン
クリニックに名前を変えました」の案内と、
「自動で移動 移動しない場合は
ここをクリック」という文字が書かれていた。
自動でリンク先に遷移したので、その流れで、
そのクリニックのホームページを見た。
地図を見るとそれほど遠くない場所だった。
価格もそれほど高くない。
興味本位とともに、酩酊した母と同じ空間には
居たくないという思い、さらには、初回半額の
クーポンがあったことも、私を後押したので、
行ってみることにした。
クリニックの前まで行ってみてヤバそうなら、
やめればいいし、もし面白そうだったならば、
後日、企画に使えるかもしれないと思った。
母から返事が返ってこない事はわかってたが、
一応「行ってきます」と声をかけた。
15分ほど歩くと、地図にある場所に着いた。
予想外に外観は洋館だった。
ここで合っているのかとも思ったのだが、
看板にクレストムーンクリニックの
文字があった。
ホームページで予め診察時間は確認しており、
診察時間内ということはわかっていたのだが、
予約が必要かどうかなどは確認してなかった。
ただ、予約が必要ならやめればいいので
思い切って中に入ってみた。
待合室には誰もいない。
受付らしきカウンターで奥に声をかけると、
自分と同年代にも見えるような若い女性が
出てきた。童顔なだけで、まさか、
自分と同じ高校生ではないと思うが。
予約してないと伝えたが、すぐに受けれる事が
わかった。そして、そのまま横のドアから、
診察室に入るように言われた。
本当にやるかどうか?という決心がつく前に、
その女性が受付の奥に下がってしまったので、
診察室に入る選択肢しかなかった。
そして診察室に入り座っていると、奥から、
先ほどの若い女性が入ってきたと思ったら、
向かい側に座った。
受付の人かと思ってたが、
どうやら彼女が先生だったようだ。
若い女性というだけで少し安心感が湧いた。
診察室は少し薄暗かったが催眠療法という事を
考えれば、それは納得できた。
まずは問診で、悩み事などを聞かれた。
あまり深い考えなく、先ほどの母親の醜態が
目に浮かんできたので、悩みとして話をした。
プロだから、聴き方がうまいのか?
あるいは部屋の雰囲気によるものか?
それはわからないのだが、母に纏わる話から、
自然と両親が離婚した事などを話していた。
問診が終わると、若い女性医師が言った。
「それでは、催眠に入ります。
力を抜いてください。
ゆっくりと、ゆっくりと、、、、」
その言葉を聞きながら意識が遠のいていった。
そして次に気づくと遠くから声が聴こえる。
「嫌なことが、これからも続くわけじゃない、
でも良い事だって、ずっと続かない。
良い事がこれからも、ずっと目の前にあると
思ってはダメ。そう思うから、それを失うと、
喪失感が強くなる」
最初の方は自信がないが、最後の方の言葉は、
しっかり捉えることができた。
確かにそういう面もあるなと思っていると、
比較的大きな声で「はい」と聞こえた。
すると、一気に意識が鮮明になった。
若い女性医師は「お疲れ様でした」と言った。
催眠療法は初めてだったが、
なんとなく頭がフワフワしている。
良いのか悪いのかはわからないのだが、
確かに嫌な感情が、薄れたような気がする。
帰りながら何となくユナショウのチャンネルを
開いていた。何気なく、先日、七海と思われる
コメントがあった動画のコメント欄を
再び見た。
すると、以前見たコメントがなくなっていた。
恐らく、翔が削除してくれたのだろう。
どこまでも、気遣いができる人だと思った。
(第49話 終わり) 次回9/19(木)投稿予定
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