素直さを教えてくれた人
「俺の事覚えていますか••」
夕方の人の波が段々増え行き交う人たちをバックにその人だけが浮き上がるように見えている。
忘れるはずがない。
あの頃はコロナ禍でいつもマスクをしていた。
でも特徴的な目元とその柔らかそうな髪。
今はもうコロナ禍も終わりマスクは外していた。
マスク下の顔を幾度も想像していたので全体像を見てもさほど印象とズレていない。
「もちろん覚えているよ。久しぶり。元気だった?」
頬が紅潮して行くのが自分でもわかる。
上手く笑顔が作れているかとても気になった。
久しぶりと言ったが
私にとっては久しぶりでも何でもない。
だってあれほど日々思い返す人だったから••。
静かな嵐のような男だった。
お互いの店が近かったせいで道でよくすれ違った。
そうしているうちにどちらからともなく挨拶をするようになり気がつけばお互い話すようになった。
夏が始まろうとしていたある日の午後。
コンビニに入って行く彼を見かけた。
私もたまたまコンビニに用事があったので入ると彼はカウンターで何かを注文している。
私は目的の品がなかなか見つからず買い物に手間取っていた。
カウンターに目を向けると彼はもういない。
焦って買い物を済ませる。
急ぎ足でコンビニの外へ出ると横の駐輪場でアイスコーヒーを飲んでいる彼を見つけた。
「お疲れ様」
さも偶然を装って声をかける。
偶然ではないけれどそう装う癖は私の悪いところだ。
そのまま素直に声をかければ良いだけのことなのに。
私は彼が笑ったところをあまり見たことがない。
そして私は正面から彼に見つめられたことがない。
いつも伏し目がちに視線を私の胸元や肩口に向けて話しかける。
あまり話し慣れていないのか人見知りなのか。
しかし私を拒絶しているのではないのはよくわかる。
その証拠に彼は私と話す時気持ちをそのまま預けてくる。
何というか、話すと気持ちの塊が10cm近づく感じ。
それでいて嫌な気持ちにならない。むしろ心が暖かくなる感じがする。
こんなにクールなのにそれでいてナイーブな人。
これほど無防備な人にそれまで会ったことはなかった。
そんな彼がアイスコーヒーを飲みながら
「ども」と挨拶をして唐突に話し始めた。
「俺、今度転勤になるんすよ。」
驚きを隠そうと平静を装い
「そうなんだね」と返す。
その後の言葉が見つからず二人で正面を見たまましばらく沈黙が続いた。
「いつ?」
口火を切って私から尋ねた。
「来月です。東京から遠くなります。」
また驚いた。彼の店は全国展開なのでよくある話なのかもしれないが彼が希望地を選択しなかったので遠くの町になってしまったようだった。
もう会えなくなるのかと寂しさが胸をよぎる。
そもそもなぜ希望地を出さなかったのだろう。
大抵は東京や横浜など近郊の土地に居たいものじゃないかしら。
それとも敢えて離れたい理由があるのか••。
いろんな思いを巡らせているうちに彼の始業時間が始まるのか、彼は
「じゃあ俺行くっす」と残りのアイスコーヒーを飲み干した。
コーヒーを飲むために顎までズラしたマスク。
横顔だけどその鼻の輪郭、唇の形、肌の質感・・・。
それぞれをしっかり目に焼き付けようとしている私がいた。
その時始めて気づいた。
コンビニで彼を見失った時なぜあんなに焦ったのか。
転勤になると聞いた時なぜあんなに驚いたのか。
普段見ることのないマスクで隠れた彼の顔をしっかり焼き付けようとしたのか。
街角で見つけるたびに目で追ってしまっていたのはなぜなのか。
私はすっかり恋に落ちていた。
転勤までの日々はあっという間に過ぎていった。
最後の日、本社に事務手続きでもあるのだろう、スーツ姿の彼は私のところにも挨拶に来てくれた。
「じゃあ」と短い一言と、苦そうに瞳を伏せた彼が駅に向かって歩いてゆく。
背中が段々小さくなる。
こんな時はやっぱりユーミンの「ダンデライオン」かしら。
記憶に焼き付けようとセットになる思い出のものを頭の中で探す。
しかし彼は癖のある歩き方でもなく第一、今は夕焼け空でもない。
「やはり思い出の場面にぴったりくるものは自分であつらえるしかないなあ」なんて冷静に感じている自分もいる。そうこうしているうちにいよいよ人の波に飲まれ姿が見えなくなる。
私は目を凝らす。
辛うじて雑踏の隙間から彼の青いスーツが改札口を抜けて行くのが見えた。
離れたとはいえ時折LINEでやり取りはしていた。
ネットで彼の赴任地に関することを調べて
さも偶然知りましたというように「〜があるところでしょう?」など話題を振っていた。
彼は「何にもないところっすよ」なんて返してくる。
そんな他愛もないやり取りが続いた夏の終わり。
彼からのLINEがぱったり途絶えた。
既読になるまでの間隔が長くなり終いにはそれすらつかなくなっていた。
まだコロナ禍の時期。彼の業界はその波をモロに食らう業種だったので仕事も大変だったのだろう。
今ならそう思える。今なら。
その時の私は頭ではわかっていても本能が理解できていなかった。
待っていても、いつまで経っても既読にならないポスト。私も思春期の女子高生でもないのでスマホを片時も離さず返信を待つなんて事はもう無いがそれでも一日の終わりにタイムラインを開いて既読を確認する日々が続いた。
そんな状態が一ヶ月続いたある日。
私は彼のLINEを消去した。
ミュートやブロックではタイムラインを復元できてしまう。
だったらいっそアカウントごと消してしまうことを選んだ。
思ったら即実行する性格。
私はネットでアカウントの消去の仕方を調べ彼のLINEを開いた。
アカウントの消去はあっけなく終わった。
まるで何も無かったかのように全てが消えた。
クラウドだったらどこかにデータが残っていて何かの拍子に目にする機会もあるだろう。
しかしLINEは全消去で何も残らなかった。
それが気持ち良かった。
そう。良かったのだ。
焦れたりウジウジしたりすることの不毛さを散々知った身には悶々と悩む時間がどれほど自己を傷つけるかをよく知っている。
悩んでいるなら早々に、続けるか身を引くか判断する必要があった。
もう無邪気に恋と戯れている時間もなかったしここで大人らしく自分で身を引くのが一番良い事だと決断した。
忙しさに忙殺されて気がつけばクリスマスが過ぎようとしていた。
店のスピーカーからクリスマスソングが流れている。
「あなたは今頃どうしているのか••。この雪を見つめ何を思い過ごしてる・・・。」
女性ボーカルの甘い声が頭の中でリピートしている。
街のイルミネーションに彼の横顔が浮かぶ。
LINEはもう無い。自分で決断したのに少し胸が痛んだ。
涙がうっすら浮かんで一雫頬を滑り落ちた。
暖かかった。
涙にも温度があるという。
どういう感情で温度が変わるのだろう。そんなことを思っているとお客さんが来たので慌てて上を向いて涙の落下を阻止した。
空からはハラハラと初雪の便りが地上に向けて舞い降りて来ていた。
年が明けて正月。
初日の出を見ながら「この美しさを誰かに伝えたい」そう思ったらまた彼の顔が浮かんだ。
急に寂しくなってLINEを見た。
当たり前だけどそこに彼からのポストは無い。
アカウントすらない。
急に思い立ちネット検索をかける。
無くしたLINEアカウントの復元方法。
一度削除したLINEのアカウントを元に戻したがっている人は思いの外いるようで復元方法を書いた記事はたくさん見つかった。
いくつかの方法があるようで試してみる。
どれも惨敗だった。
ならばSNSならどうだろう。
でもそっちは全くやっていないと以前話していたことを思い出す。
ものは試しと検索をかけるとそれらしき人物が出て来た。らしきなので確定では無い。
それでもその中の情報を頭に叩き込む。
しかしそれ以上のことは何も分からずじまいだった。
DMを送ってみようか?
それともフォローすれば向こうも気づいてくれるかもしれない。
そんな期待とは裏腹にもう一人の私が囁きかける。
「もしこれが彼だったとして今更なんて言葉を送るの?それになぜLINEじゃ無いのか訝しがるよ」
その通りだった。アカウントを消去したのは自分だ。
せめてブロックにしておかなかったのが今更ながら悔やまれる。
恋焦がれるというのとはもはや違う。
月日の風が気持ちを程よく冷やし懐かしく思い出すほどに恋の熱を冷ましてくれていた。
それから2年経った。
仕事が早く終わった土曜日の夕刻。
自転車での帰り道。シグナルで止まると横断歩道を自転車で渡ってくる人が居る。
見覚えのある目元、春の日差しのように柔らかそうな髪。
幾度も繰り返し見つめたその目元を忘れるはずがない。
マスクをしていたから隙間から見えることを頼りに少しでも情報量を増やそうと凝視していたその顔を心の記憶媒体がしっかり記憶していた。
しかしあれから2年半。
今はマスクを外し顔全体が見えているため確信が持てず声をかけられなかった。
しかも彼は東京に居ないはずではないか。
でもきっとそうだよと本能が教えている。
もしかしたら彼から声をかけてくれるかもしれない。
シグナルが変わっても自転車を漕ぎ出せず彼の姿を目で追う。
横断歩道を渡ってくる途中で向こうも視線に気がつきこちらを見ている。
すれ違った。
瞬間、お互いに目と目が合った。
喉元まで声が出かかった。
しかしわずかに残った疑念が私を躊躇わせた。
もしこの距離ですれ違って向こうも私に気がついたのなら声をかけてくれたのではないか?
彼はきっととてもよく似た人だったのだ。
そう自分に言い聞かせて私は自転車を漕ぎ出す。
見ると彼の方も私の走っている道と平行の道路を自転車を走らせている。
建物の切れ目ごとに彼の姿が現れては消える。
いくつ目かのビルを過ぎた時もう彼は姿を現さなかった。
胸が少し苦しかった。
本人に会えなくてもあんなに似た人を会わせてくれたのだからそれで良いではないか。
それでも心のどこかであれはきっと彼だったのだと確信めいたものを感じていた。
それから3日経ったある日の夕暮れ時。
先日見かけた「彼らしき人」が行き交う人波の間に見えた。
「あっ•••」と思った次の瞬間彼が迷っているように揺れながら私の店に向かってくる。
「俺のこと覚えていますか?」
この前すれ違った「彼に似た人」はやっぱり彼だったのだ。
「もちろん覚えているよ。久しぶり。元気だった?」
「覚えているも何もこの前見かけたの。そこの交差点で。」
さほど驚いている様子がないところを見ると彼の方も気がついていたのだろう。
「ああ」と短い返事が返って来た。
「仕事はどうしたの?✖️✖️にいるんじゃなかったの?」
「俺やめたんすよ。色々とキツかったっす。辞めてまたこの町に戻って来たんすよ」
異動した当初やはりコロナ禍の影響で店舗の運営はかなり大変だったと私に告げた。
それに輪をかけて人件費の削減で正社員だった彼には相当の皺寄せがきていたらしい。
LINEを気にかけていられるほどの余力がなかったのも頷ける。
一通り近況を話し合った後私は彼にお願いする。
「LINEをもう一度交換して欲しいの」
「あなたのLINEがどっかいっちゃったの」
「機械が苦手だから間違えて消しちゃったのかも」
「・・そうなんすね」
一瞬「嘘だ」と見抜かれたような気がした。
でもそれは私にやましい気持ちがあるからそう思えるのかもしれないと思い直した。
第一LINEの返信をくれなかった彼にも非がある。
そう自分を奮い立たせるように返事を待つ。
「良いっすよ」
彼がスマホを差し出し交換しようとするが操作がわからない。
すると彼が「ここをこうっすよ」と隣に寄り添って操作してくれる。
彼の体温を感じた。
まるで少女に戻ったようだった。
こんなにときめいてドキドキする日がまた来ようとは思いもしなかった。
自分でもチープすぎるけれどやはりこれが恋だった。
しばらく話し込んだ。話すうちに彼の変化に気がつく。
彼は以前より私の目を見て話すことが多くなった。
その目は自信に満ちそしてどこか幸せそうだった。
そして弾むように楽しそうに話す。
「色々あったけど俺、今が一番幸せっす」
激務を乗り越え新しい職場では少し時間にゆとりもできているようだった。
普通の生活が出来るようになって幸せなんだろうな。
別れ際「LINEの返信してよね」と拗ねたフリをして彼に言う。
彼もそのことが気がかりだったのか
「あの頃は一番病んでた時だから誰にも返信していなかったっすよ」
と取り繕うように言った。
気にしてくれていたんだ。
やはりLINEアカウントを削除していたことを悔やんだ。
「近所ならまた寄ってよ。いつでも待ってるから」
「ありがとうございます。」そう言って彼は夕方の人波に消えていく。
彼の姿を目で追いながらあの日同じ場所から見送った小さく遠ざかっていく彼の後ろ姿を思い出していた。
やはりLINEの状況は同じだった。
こちらからは送るけれど返信はない。
でも今は既読にならなくても気にしない。
アカウントも削除しない。
それは自分の愚かさに気がついたからだ。
アカウントは例えデジタル文字の羅列に過ぎなくてもそれはその人の分身だと思える。
それを簡単に消すことはその人の存在を自分の中から簡単に消すことと同じだ。
デジタル文字の羅列でもそれが無ければ連絡を取ることも出来ないし会話する事もない。
好き過ぎて苦しくても連絡が途絶えてヤキモキしても放り出さない。
もし消す事があるのならそれは相手の気持ちを確認してからだ。
こちらから勝手に思い込んで削除しても、もしかしたら彼のように事情があって返信できなかっただけかもしれないし、たまたまポストに気が付かなかっただけかもしれない。
私は多分「彼は私がアカウントを削除したことに気がついていた」のだと思った。もしくはLINEをもう一度聞いた時気がついた。
だから私が「アカウントをもう一度教えて」と言った時「やはりそうだったのか」と一瞬悲しそうな顔をしたのだろう。
もし嫌われていたのなら町で会っても他人のフリをして行き過ぎるか、ましてその後わざわざ店まで訪ねては来ないだろう。そもそも嫌いな奴の住む町、しかも近所になど住むことを選びはしないだろう。
私も今回の事でもっと素直になることを学んだ。
偶然を装って会うフリをしたり話題を振るネタを探したりそんな事は逆に自分の足を引っ張る事でしか無かった。
会えて嬉しかったらそのまま飛んでいって「会えて嬉しい」と伝えれば良かった。
彼の住む町の情報をかき集め話題を探すより、彼の元へ駆けて行って実際に同じ景色を共有すれば良かった。
また会う事ができたら私は迷わずそうする。
誰に対してもきっとそうする。
これは彼に教わった一番大事なことだ。
千本ノック 16/1000
*この物語はフィクションです。
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