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私の安住の地

「飲みに行きませんか?」

突然の声かけに顔を上げると二人の若い男の子が微笑みながら立っている。
私は走っているランニングマシーンの速度を落としてもう一度聞き返す。

「僕たちと飲みに行きませんか?」

体つきの良いタンクトップを着た男の子がさっきより少し声を張って聞いてきた。
時々見かける男の子だったが私はもっぱら初心者向けのコーナーにばかりいてそちらは上級者向けのコーナーにいるので話したこともない。
それなのになぜ?といぶかしがっているともう一人の細い男の子が「僕たちあなたをよく見かけていたので今日は思い切って誘ってみようかと思って声をかけてみました」と言った。
見るからに私より一回りは若い。私に声をかけるよりもっと若くてかわいい女の子ならこのジムの中でさえ沢山いる。
わざわざ私になど声をかけることもないのに。
そう思いながら二人の様子を見てみる。二人とも邪気のない顔で答えを待っている。

一昔前ならこんなシチュエーションで声をかけてくる若い子はもっとギラギラしていたはずだ。
わかりやすかったといっても良い。
だから断りやすくもあったしあえて距離を置くことも出来た。
しかし今目の前にいる二人は純粋に答えを待つ小動物のように二人並んで立っている。
時代が変わったのかなあと思いつつお茶くらいなら付き合っても良いかなとふと思った。
この二人ならお酒よりお茶のほうが似合う気がした。別に馬鹿にしているつもりもなくこちらも純粋に思っただけだ。
「ごめんなさい。先約があるの」
「わかりました。じゃあまた今度誘わせてください」
こちらが拍子抜けするほどあっさりと引き下がっていった。
私も嘘をついたつもりはない。
本当に先約があったのだ。
今夜は夫と二人でちょっと早いクリスマスディナーに行く予定だ。

ちょっと予定外の出来事だったが時計を見ると丁度ランニング終了予定の時刻だった。私はランニングマシーンの清掃を終えシャワールームへ向かった。

クリスマス前の駅は心なしかウキウキした空気に包まれている気がする。
改札前に飾られた大きなクリスマスツリーがひときわ輝いて見える。

クリスマスディナーなら若い頃ならもちろんイブよね!となっていたかもしれないがクリスマス時期は丁度仕事納めの時期でもある。
バタバタして慌ただしい頃よりも少し落ち着いて二人の時間が楽しめる今の時期を選んだ。
それに「クリスマスじゃなきゃイヤ」なんていうより二人でいられればクリスマスでなくても何もこだわることはない。一日一日が大切なことの積み重ねだ。

もう来る頃かしら?

時計に目を落とす。すると
「僕たちと飲みに行きませんか?」
背後から声がした。
ドキッとして振り向く。

夫がはにかみながら立っている。
「いやだ、どうしたの?びっくりしたじゃない」
「ごめんよ。びっくりした?君がツリーの下で待っているのが見えてちょっと驚かそうと思ってさ」
二人とも照れながら見つめ合っている。
なんだか初めて出会った頃の気持ちがよみがえってくる。
「じゃあ行こうか」
二人肩を並べて歩き出す。

ディナーはショッピングモールの中庭に面したターキーのおいしい店だった。ショッピングモールの中庭にはスケートリンクが設営されていてカップルたちが思い思いに滑っている。

そんな姿を見ながら会話が弾む。
「そういえばさっきの言葉。あれどうしたの?」
「何のことさ?」

「あれよ。僕たちと飲みに行きませんかって言葉」

ちょっといたずらっぽく彼が笑いながら話す。
「ああ!あれね。実はさっきまで僕もジムにいたのさ。君がランニングマシンで走っていたから声をかけようと近づいていったのさ。そしたら僕の前を歩いていた二人の若者が君に声をかけたからさりげなく近くでやりとりを見ていたのさ」

「そうだったの?だったら声をかけてくれれば良かったのに」

「いや、声をかけようと思ったけど。二人にお声をかけられていた君はとてもきれいだったから。二人が声をかけようと思った気持ちがよくわかったんだ。二人が去った後も君をずっと見ていたけどやっぱり君はきれいだった。見とれているうちに君はシャワールームへ行ってしまった。だから外で待っていたんだ。ジムから出てきた君もやっぱりきれいで声をかけるのも忘れて待ち合わせ場所まで来てしまった。着いてからも君を見ていたから危うく待ち合わせ時間を過ぎるところだったよ」

どうりで。いつもは時間より前に来ているはずなのに今日はギリギリだったわけだ。
少年のような顔をした夫が少年のような澄んだ瞳で私を見つめる。

「いつもきれいでいてくれてありがとう」

ワイングラスを掲げて彼がいう。
それは逆だ。
あなたがいるから私はいつでも最高でいようと思う。

もし私がきれいだというのならそれはあなたのおかげだ。
日々の穏やかな暮らし。好きなことに没頭させてくれる大きな心。
私の矛盾や気まぐれを優しく受け止めてくれる懐の深さ。
何よりあなたにとって最高の女でいようと思わせてくれる深い愛に私は心から感謝する。

「こちらこそ。いつもきれいでいさせてくれてありがとう」
「もっともっときれいになってくれ」
夫が優しい瞳を私にまっすぐ向けながら言う。

「期待に沿うよう頑張ります!」

そうおどけた私に夫が優しく微笑みかけた。

千本ノック   21/1000

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