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豊かになる事で失われるもの

僕は毎日、モロッコの名前も知らない田舎の小さな街の小さな家の中で、5分前まで顔も知らなかった「友達」と食卓を囲んでいる。


彼らと仲良くなったのは、つい最近。ドイツからモロッコに着き、空港から出るとすぐそこに、彼らはいた。大きな荷物を抱え、車に向かって大きく手を振り続けていた。話しかけてみると、どうやら地元の仲良し3人組で、車で3時間ほどの山奥の古いモスクまで、ヒッチハイクをしているらしい。

「めっちゃおもろいやん!俺も混ぜてや!」

そこからその3人との生活が始まった。

毎日が驚きと感動と困惑の連続だった。ヒッチハイクをすれば、すぐに止まってくれた。目的地にホテルが無く、どこに泊まるつもりか聞くと、「近くの人の家」という答えが返ってきた。そんなに簡単に泊めてくれる人が見つかる訳が無い、そう思っていると、1軒目に尋ねた家が泊めてくれ、豪勢な食事を振舞ってくれた。地元に帰ると、友達の家族が総動員で出迎えてくれた。毎日、食卓にその家の住民では無い人がいて、一緒にご飯をつついていた。毎日つい5分前まで他人だった人と同じ飯を食べていた。

それだけでは無い。

全然知らない人に、財布などが入った荷物を何回も預けられた。地元の食堂で何回も隣の人にご飯を分けてもらった。友達が近くの知らない人に水を貰っているのを何回も見た。
1日のラマダン後の為に楽しみに取っておいた僕の水(僕もラマダンを体験していた。ラマダン中は日中、食事はもちろん、水も一滴も口にできない)が断りなく勝手に飲まれたり、勝手に僕の物を使われてイラついた事も一度や二度では無い。

「何故この人達はこんなにも自分の、日本の常識とかけ離れているのか。」

寝そべった僕の上で無邪気に遊ぶ子供達にもみくちゃにされながら、考えてみた。すると自分の中で一つの結論が出た。

「恐らくこの人達は、シェアをする事に日本より遥かに抵抗が無く、互いの所有物の境界線が日本よりも曖昧なんだ。」

僕がお邪魔したモロッコの田舎の一般家庭は、お世辞にも金銭的に豊かな方では無かった。
小さな家を何部屋にも分けて何世帯も住んでいたし、wi-fiは勿論、洗濯機もシャワーも無く、2畳ほどの狭いトイレの中で、和式便器のすぐ横に置かれたバケツを使って手洗いで洗濯もしていたし、そのバケツの水を被る事がお風呂だった。電気も薄暗く、水も時々止まっていた。

それでも彼らは分け与えていた。客人が来ると家族のように笑顔で迎え入れ、分かち合い、些細な事で大爆笑する。

僕は、この人達はとても豊かだと感じた。確かに、金銭的には豊かでは無いのかもしれない。でも、だからこそ、生きる為に、楽しむ為に、その時自分にあって相手に無いものをあげ、逆に相手にあって自分が必要としている物を分けてもらう。なんて素敵なんだろう。なんてかっこいいんだろう。

今日本では、多くの人が近所に住む人と関わりを持っていない。僕もこの前まで日本で借りていたアパートでは、隣の部屋の人と二言しか話したことが無かった。日本ではそれでも簡単に生きていけてしまう。

「人は誰しも一人では生きられない。」とよく聞くが、それはあくまでも生活に携わっている人を考慮した場合であって、実際には誰ともコミュニケーションを取らなくても一人で生きていける。

金銭的な豊かさのレベルが上がっていくにつれ、人々は周囲との壁を高くしていき、セキュリティを強化し、孤立していく。そっちの方がリスクが少ない生活を送ることができるからだ。

でもそれは同時に、精神的な豊かさを減らす事にも、多かれ少なかれ繋がっているのでは無いだろうか。

豊かになる事で失われるものもまた、あるのかも知れない。





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小松航大
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