死刑廃止を考える
死刑の犯罪抑止力の対象は、主として殺人を前提としているが、その殺人も具体的事例になると、どういう状況下で殺人を犯したかは複雑であり、単に人を殺せば死刑になるからと殺人を思い留められるような単純なものばかりではない。また、死刑による強烈な影響を受けるのは、死刑囚の身内だけではない。被害者の家族・遺族も、必ずしも死刑を望んでいるとは限らず、心理的な影響を負いうる。さらに、死刑の法的手続に関わる人――検察官、弁護人、裁判官であれ――は、自らの役割と行動のプレッシャーから、遅かれ早かれ、心理的な影響で苦しむかもしれない。それだけでなく、死刑囚と多くの時間をともにする刑務所長、医師、刑務官、死刑執行に立ち合う人等、死刑はさまざまな点で、多くの被害者を作り出しうる。
日本国憲法の基礎には、「生命の不可侵」の理念がある。また、国連の死刑廃止への理念も、人間の生存権の基本が「生命の不可侵」にある点にある。アメリカにおける死刑廃止州での凶悪犯罪の増減を見てみると、殺人の件数は、死刑存置州が廃止州を上回っている(一九九〇~二〇一八年、参考文献参照)。これだけで、死刑の抑止力の有無について即断はできないが、日本の死刑相当の凶悪犯罪発生状況は、国際的に見てももっとも低い点も留意すべきであろう。死刑廃止への受け皿として終身刑が考えられるが、国家権力によって死刑囚を抹殺するよりも、終身刑を導入し、受刑者の更生を図った方が、人間の尊厳の原則に合致し、社会の公序良俗を高めることになるのではないかと考えている。
日本における四大死刑冤罪事件は、死刑における誤判・冤罪は避けられないことを示している。一人でも誤判・冤罪によって死刑を執行することは、あるいは、その可能性を認めた上で、死刑制度を維持することは、基本的人権の「普遍性」に真っ向から矛盾するのではないだろうか。
<参考文献>菊田幸一『新版死刑廃止を考える』
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