ニートのひとりごと
ってタイトルでニートを名乗ろうと思ったんですけど、ふと定義が気になって調べてみたら
>十五歳から三十四歳までの、家事・通学・就業をせず、職業訓練も受けていない者
って出てきてしまい私はニートを名乗る資格が無かった。えーん。カテゴライズしてくれよ〜〜〜〜
家事も一応してしまっているし、しかしまあこれから述べることは時間貴族の戯言なのでまあニートのひとり言として読んでもらうのがわかりやすいかもしれんと思います。
で、近況をいきなり書くんですけど、もうメタクソなんですよ。
どうメタクソかというと毎日風呂に入れなかったりして、一日おきになっちゃうのが続いたときは子供に「今日はお風呂の日?やったー!」とか言わせてしまっていてもうほんと何やってんすかねって感じでした。
あとレトルトカレーと冷凍の焼きうどんの登板が目に見えて増えた。
子供の顔を見ていると無性に悲しく、なんで悲しくなるかというのを考えてみたときに、この子は私といて楽しいのだろうかみたいな気持ちが頭をもたげてきてしまって、そういう気持ちにさせられる(ひー!被害者意識〜!)のがあって、可愛い愛しいという気持ちと、悲しくなるから顔を見せないでという気持ちで揺れ動いており、それで情緒不安定になって嫌なことを思い出して奇声を上げたり急に笑ったり抱きしめたりしてしまって、もうこれは明確に虐待の域に入っているのではと思い、なんでこんなことになってしまったかというと夫がいきなり死んだからなんですけど(被害者意識!!!!!!!!!!!)(私は世界の被害者である)(私は全く悪くない)(だが間違えてはいる)(長いスパンで見たときに誤っていない選択はなく人間は選択をした時点でそれが誤りであることは決定事項である)(誤りの積み重ねが人類の歩んできた道でありこれからも行く道である)、それはそれとして私が子供にとってよくない存在であることは確定的であるのでどうしようかな、と思っていると子供が「嫌なこと思い出しちゃったの?」と確認しに来てくれて「そうだよ」と答えてはすみませんという気持ちである。
という事態はおいておくとして、おいておくというのにこれだけ混乱を書き連ねたのは暴力です。読む者への暴力です。
それでクリニックにも行けていない、なぜなら寝てしまったり忘れてしまったりして予約を無視してしまうからである。迷惑。薬ってわりと意味あったんだなあというのは夜の抗うつ剤が無くなってから一週間を過ぎたあたりで、前述のようにわかりやすく駄目になってきているので、運動をしてみたり部屋を片付けてみたり、断捨離をしてみたり、家事を丁寧にしてみたり、SNSから離れてみたり、まあ色々した。時間があったので読書をしては昼寝をした。ワンオペ育児で「時間があったので」とか言ってるのがもう意味不明で、そこに実際に起こっていることは「ママ本読んでるから放っておいて」「ママ体調悪くて寝ているから放っておいて」「ママおうちのオシゴトしているからちょっと待ってて」なのだが…。
で、たまに片付けのモチベーションを保つためにインスタの断捨離系の投稿を眺めたりしていて思ったんですけど、そう、やっと本題なんですけど、家事の効率化も、迷うこと、探すことの時間をなくすというのも、「分かる」し「正しい」。それによって生み出されるのが「自分の時間」だっていうのが、ちょっと分からない。
自分が自分の身体をもって動いている限りそれはずっと自分の時間で、あるはずのものをイライラしながら探す時間、整頓されない食器棚から数多ある皿をどかして茶碗を取る時間、床の物をどかして掃除機をかける時間、あふれるタオルをおしこめる瞬間のやりきれなさ、それも自分を自分として感じる時間なんじゃないかしら、と思うのであった。あと、時短家事にみられる効率最優先も私は疑問があり、というのは暇人のニートだからだと思うんですけど、そりゃあ自分が嫌いな家事は家電の導入や動線工夫、収納の改善でどんどん減らすべきだと思うし私もそうしている。でも休み休み、二枚服を干しては座り込み呆然、みたいな瞬間に生まれる思考、人間には結構大事じゃないですか?という気もする。
服を畳んでタオルを畳んで靴下をあわせてくるりと丸めて、そうしている間にしか生まれない思考のリズムみたいなものもありませんか。分からないけど。なぜなら暇人なので。暇を恐れて寝逃げしている暇人なので。
とにかく「自分の時間」を作るとなった時にその裏に効率化があり、効率化の結果生まれた時間に、ただだらだらと洗濯物を畳んでいるときに生まれる思考、そのときの脳を再現できますかということなんですよ。
山となった流しの鍋に絶望して、とりあえずフライパンひとつ洗ってみたところでむりに狭いシンクで洗うものだから水がはねて、「ファック!」となったところで急にすべてが許せるような心持ちになる、そういうことが、「自分時間」にたとえばヨガをするなり手帳をつけるなり凝ったSNS投稿を作成するなり、コーヒーを飲むなり、なんでもいいんですがしている瞬間に訪れますか、ということなんですよ。なにか意味があるような時間のなかにありますか。
どこにいても逃れられない自分と向き合う時間が「自分の時間」なのではないかと思ったときに、家事の効率化とそれにより創出される時間のみが自分を自由にするものですかということをつれづれ思うのですよ。
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