しなければいけないことなんてなかった
ここ最近の日課は瞑想とヨガ。
呼吸が好き。
どちらも動画を見ながら続けているのだけど、続けることで気づくことも多くなってきている。
私には、今の私にはとても合っているのだと思う。
併せて受けているコーチングも先生との相性がとても良い。
未だ無職でなんなら身体の調子もまだ万全ではない。
気持ちがどん底に落ちていてもおかしくない状況ではある。
確かに少し前まではそういう心持ちだった。
今は緩やかに右肩上がりなのが自覚できている。
半年前の私には想像もできなっかった今。
会社員だった私が惣菜屋を開業しようと準備を始めた矢先に母が末期癌で余命宣告。
パワハラ社長に耐える日々と母の介護と生前整理と開業準備が重なった。
店のオープン4日前に母が亡くなった。
そのままのスケジュールでこなしていったが、準備不足、ワンオペ、もうほとんどその日のことを考えるだけで精一杯だった。
心も身体も壊れてしまいわずか2ヶ月半で店は閉業した。
そこから焦って見つけたパート先がまたクセの強い環境ですぐに体調に支障きたした。
ここ数ヶ月の医療費やばい。
そして今に至る46歳。
瞑想とヨガとコーチングで自分を見つめる46歳。
このコンボで最近、光が見えてきている。
『しなければいけないことなんてない』
心がモヤモヤしていた。
それがなんなのかを見つけた。
それは、完璧な母親という理想像。
私が私自身に課した義務。
そのためにはしなければならないことがたくさんあった。
それは私がやりたいことだと思って自主的にやっていたのだけど、結果的にそれが苦しさの原因だった。
それに気づいた時、私はその理想像に近付くために私以外の人の人生をコントロールしようとしていたことに気づいた。
息子の人生、甥の人生。それ全てを勝手に背負い、良い方へと思いながらも私の感覚でコントロールしようとしていた。
そんなもんうまくいくわけもなく、不安と焦りとモヤモヤ生産の繰り返しだった。
良いことをしているつもりだった。
でも、私は私の理想像を達成しようとしていただけだった。
完璧な母親であることが私の価値とイコールになっていたのだと思う。
必死で自分にたくさんの義務を課して、なんちゅうひとり相撲。
コーチングの先生に聞かれた。
あなたは生まれたての赤ちゃんを見て価値がないと思いますか?
一人で生きることさえできない人間を価値がないと思うかと聞かれて、私がいかに自分で自分を苦しめていたかに気づいた。
価値なんてそんなもんは生きてるだけで既にある。
いろんなものが絡まって見えなくなっていた自分の核の部分が見えてきた感じがした。
そこから毎日の日課が効果を発揮してきた。
瞑想では涙が流れ、笑顔になる。
ヨガでは日々の身体の変化に敏感になった。
そこでの気づきをコーチングで次の課題と向き合う。
頭の中の霧が晴れ、余計な不安が消え、苦しみからくる行動も削ぎ落とされていく。
そして自分を幸せにできるのは自分だけなんだと。
自分で自分に課したしなければならないことは幻想なんだと。
振り返ってみると、息子や甥の人生を勝手に悲観してあれこれ先回りして不安だらけになっていたな。
彼らの人生は彼らのもので幸せも彼らが決めること。
自分の人生に向き合うのも助けを求めるのも彼ら自身がやることだ。
私はもっと自分の人生を生きればいい。
しなければいけないことなんて始めからなかったんだ。
その行動、思考が自分の理想像を埋めようとしていないか。
勝手に相手を可哀想な人にしてまた自分を理想像に近づけようとしていないか。
それをいつも自問自答しながら引き続き自分と向き合いながら行動してみよう。
やっと心底、前向きになれてきた。
その調子だ、私。