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自分で自分のことがわからないまま、歩いているひとがたくさんいるこの世界で


LINEのkeep機能がなくなるとのことで(使っているひとが少ないのかな)残していた言葉たちをメモにコピペした。
友達からのたくさんの嬉しい言葉たちが並んでいて、読み返していくと思わず涙が出てくるようなことばかりが書いてあった。
その中でもとても懐かしいものが出てきたんです。
福岡に路上ライブをしにいったときにすごく仲良くなった子がいて。
その子からもらった言葉がとても今のわたしに刺さっている。
あの頃のわたしが20歳くらいだからあの子は17.18くらい?だったかな。
ベースを弾いていて同じく音楽の道を選ぼうとしている中、たまたま出会った私たちにとても勇気をもらったと言ってくれた。
九州の路上ツアー懐かしいなあ。
そこで起きたこととか、感情とか、景色とかいろんなことが今でも残っていて。
わたしまたここに来るね、また会おうねという言葉が残っていて。
その子のベースになんともおこがましくも残したサインをふと思い出して。
わたしまたがんばるね、とこころの中で思いました。
元気かなあ。


感情の制御がつかないまま、どうして悲しいのか、苦しいのかわかっているけど、わからなくて。
誰かに弱音を吐ける強さがなかったあの頃。
こころが繋がっている友達がいるはずなのに、本当にひとりだと思っていたあの頃。
きっと聞いてくれるひとはいる、だけど親しいからこそ困らせないようにと、話せないことや言葉が多かったあの頃。
過去を振り返ることはよくないことだとは思わないので、よくこうして耽っている。過去に囚われてしまうのはつまらないですけどね。
わたしは多分とことん中二病と言われるほど空想家だし、目に見えないものを信じている。(うたうひとってそういうひと多くないですか)
楽しいことも苦しいこともすべてに意味があると思っている。
なぜ、いつ、どこで、それが起きたのか。起きているのか。起こるのか。すべてに。


ふとある詩を見つけてこころくらったので共有させてください。


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「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


(茨木のり子さん談 より抜粋)
それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしいんじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじ ゃないかという疑問は子供心にあったんです。
ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって 。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかったわけなんです。だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがったって言えるけれども、人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをするっていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」 なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。

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自分の感受性くらい、自分で守れよ
はっとしまして。
なんだか涙がでました。
ひとの思慮思考にいつまでも惑わされてるんじゃない!と背筋が正されたような。
時代背景は今とは違うかもしれないけど、いつの時代もやっぱり人に惑うし、争いが起きていて。
自分の私利私欲のために、ひとを傷つけちゃいけないし、迷惑をかけてはいけない。
こんな簡単なことができなかったりして。
どんどん枯れていく自分を自分で奮い立たせることのできる、そうだよな〜と再確認させてくれる芯のこめられた詩だなと思います。ありがとうございます。


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