見出し画像

Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る

 習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。もしよろしければ。↓

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。


これまでと、これからのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊

本編 Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る


アリスがフランスに帰国してから、僕はなんだか抜け殻のようになってしまった。躰中の密度がうんと薄くなって、輪郭はあいまいになり、空気の中に溶けてしまいそうな気がした。秋の空はどこまでも高く澄んでいて、見上げていると魂が散り散りに消えてしまいそうだった。僕はどうしたらいいのかよくわからなかった。たった二週間、彼女がいない、ただそれだけのこと。世界が終わったわけじゃない。頭ではわかっていた。誰かの不在にこんな風にうろたえている自分は滑稽に見えるだろうとも思った。けれど躰が自動的にすべての機能をスイッチオフしてしまったみたいに、まったく言うことをきかない。暗闇の中でもやいの切れてしまった船みたいに、僕は青黒い海のような日々を漂流していた。



 当然のことながら、一大学生の個人的な感傷によって世界がその機能を停止するはずもなく、これまで通りの日々が続いていた。僕はいつも通りに大学に通い、アルバイトに行った。すこし迷ったが、フランス語の授業にも出席した。もしかしたらアリスはこのまま帰ってこないのではないかという漠然とした不安が胸をよぎったが、もし帰ってきたらと思うと(十中八九帰って来るだろうけれど)、フランス語能力をすこしでも磨いておきたかったのだ。ただ、授業後に習慣となりつつあった中山伊織とのおしゃべりの時間は、バイトだからと言って断ってしまった。とてもじゃないが誰かと話せるような気分ではなかったのだ。彼女は笑顔で快諾してくれたが、別れ際に、「ちょっと顔色が悪いんじゃない?」と言った。その時、授業を終えた学生たちが他の教室から出てきたので、僕たちは廊下に身を寄せて彼らに道を譲るかたちになった。一刻も早く帰りたかったのに、人波がおさまるまで待つしかない。仕方がないので僕たちは話を続けた。
「たぶん、寝不足のせいじゃないかな」と僕は言った。内心、早く会話を終わらせたくてイライラしていたが(僕はここのところちょっとしたことにすぐ腹が立つようになっていた)、なるべくそれが態度に出ていないといいなと思った。
「そう?体調に気を付けて。バイトがんばってね」
中山伊織はいつものように笑って言った。そして人波がはけると、僕の隣をするりと通って足早に去っていった。彼女のロングボブの髪の毛が秋の風のなかできらきら光っていた。



 バイトが終わって帰宅すると、祖母は小豆粥を作って待ってくれていた。けれどまったく食欲がなかったので、「あとで食べる」と言ってラップをして冷蔵庫にしまった。彼女はそれに関しては特に何も言わなかった。ただ、僕の肩を叩いて「あまり無理しなさんな」と言った。
「うん、ごめん、時子(ときこ)さん」と僕は答えた。
時子というのは僕の祖母の名前なのだが、彼女はどういうわけか、幼少のころから僕に「おばあちゃん」と呼ぶのを禁じていたので、このような妙な呼び方になっているのだった。



 祖母はもうすぐ雨が降るから部屋の窓を閉めるようにと言い残し、暗い台所を出て、寝室に向かった。スリッパのぱた、ぱた、という音が廊下に響いていたが、しばらくするとその音も闇に吸い込まれていった。ほどなくして祖母の言った通り雨が降り始めた。それは暗く激しい雨だった。大粒の雨が家中の窓という窓を叩いていた。まるで締め出しを喰らった雨男が大声で泣き叫んでいるみたいだった。雨は一晩中降り続くように思われた。肉体はくたくたに疲れていたけれど、眠れそうになかったので、僕はベッドに寝ころんでその辺に置いてあった本に手を伸ばして適当にページを開いてみた。


 ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。
(『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン著 朝吹登水子訳)

 それは以前アリスが薦めてくれたフランソワーズ・サガンの小説だった。本当はフランス語で読んでほしいけど、と彼女は言っていたが、僕のレベルを考慮するとまだまだ原文で読めるレベルではなかったので、ある日古本屋で見つけた日本語版を購入したのだった。僕はその本を放ったらかしにしてしまっていたらしい。ページを繰ると、古本独特の甘い香りがした。それは森の中で腐ってゆく葉っぱの匂いにも似ていた。ページを繰るごとに、言葉が浮かび上がってくるように思えた。まるでそこにいないアリスが僕に物語を語っているみたいだった。僕は貪るように本を読んだ。窓の外ではあいかわらず暗い雨が降っていた。


この記事がいいなと思っていただけたら、サポートをお願い致します。 いただいたサポート費はクリエーターとしての活動費に使わせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします!