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ゆく夏に穿つ 第二十五章 虹~エピローグ(完結)

<第二十五章> 虹

太陽が傾いてきたころになって、美奈子はようやく意識を取り戻した。

「気分はどうだい」

清潔な布で美奈子のひたいに浮かんだ汗をぬぐいながら、木内は問いかけた。

「……はい、大丈夫です」
小さく、しかしはっきりとした口調で美奈子が答えると、木内はホッと胸をなでおろした。

「まだしばらく横になっていてね。今日いっぱいは、様子を見させてほしい」

その言葉に、美奈子は「わかりました」と落ち着いた様子を見せた。
木内の隣に、剣呑な表情を浮かべる裕明がいるのを認めると、美奈子はにこりとほほ笑んだ。

「ごめんなさい。心配かけちゃった」
「きみが謝ることじゃない、よ……」

裕明がそっと美奈子の手を取る。木内は小さく深呼吸すると、裕明と美奈子を二人きりにさせる決断をした。

裕明の白い手に自分の手を委ねて、美奈子は気丈にも笑顔を彼に向け続けている。裕明の鼓動はますます上昇するが、不思議と嫌な感覚ではなかった。

美奈子の心拍数は、繋がれた心電図で丸見えである。高めの数値を行き来していたが、もちろんそれは身体の不調のせいではない。

「今は裕明、かな?」
「うん」
「そっか。そっかあ……」

美奈子は噛みしめるように裕明の目をじっと見た。裕明はもれなく赤面する。美奈子は、一度大きく息を吐いた。

「勝手なことをしたと思う。けれど、大切なことをしたとも」
「うん」
「私は、あなたにはなれなかった。他の誰にもなれなかった。私は、私以外の誰にもなれそうにない」
「羨ましいよ」
「でも、『あなた』の血が私に流れている。たとえあなたが誰であっても、私には決めるべき覚悟があるとわかったんだ」
「どういう意味?」
「ずっと独りだったんだね」

裕明は沈黙する。

「ずっと独りで、なにもかもかかえて。つらくないわけがない。私は、あなたがもうこれ以上独りで生きていくことが許せない、とても耐えられない」

丁寧に、美奈子は言葉を紡いだ。

「気づいてしまったから」

それから美奈子は、裕明の手をぎゅっと握り返した。

「私、『あなた』を愛したいって」

その言葉を待っていたかのように、今度は裕明の両目から涙が零れだした。美奈子はなおも続ける。

「この世にはあるんでしょう? 『一目ぼれ』っていう現象が。それにね、こういう感情には筋合いや説明は必要ないの。私、『あなた』の血を全身で感じていることが、こんなにも嬉しいってことが嬉しい。とにかく嬉しいの」

裕明は、全身の底から湧き上がる強烈な歓喜に、恐怖すら覚えて背筋を震わせた。

こんなことがあっていいはずない。
僕は、誰からも必要とされずに生きていかなければならないのに。
なのに、どうしてこの子は僕に笑いかけるんだ。
許されるはずないのに、僕は。

「そんなことないんだよ」
「えっ」
「あなたは、私が愛します」

――裕明の目の前に横たわる美奈子、その背後に過日のぬくもりが立ち現れる。まるでクリスマスのイルミネーションのように、お父さん、お母さん、まだ幼かった妹の姿が浮かんでは消えていく。ああ、もっとずっと、一緒にいたかった。

次に目の前に現れたのは、守ってやれなかった同級生たち。ごめんね、ごめんなさい。わかっていたのに、死なせてしまって、本当にごめんなさい。許してくれとは言わないから、その代わり、僕のことも絶対に許さないでください――。

「大丈夫だよ」

美奈子の笑顔は、すべてを許し与える天使のそれであるかのようだ。

「一緒に、背負おう。罪も後悔も恐怖も、今日この瞬間からふたりのものにしよう」
「きみは、いったい……?」
「あなたの、恋人」

美奈子がそういった刹那、裕明の表情が一瞬にしてこわばった。

(雨、あめ)、
(ふれ、ふれ)、
(いや、降るな)、
(ねぇ、楽しかったね。)
(ありがとう、楽しかったよ。)
(楽しかった。)
(嬉しかった。)
(幸せだった。)
(みんな、過去形だけどね。)
(雨、あめ、降れ、ふれ。
(降れば、虹がかかるから。)
(虹がかかれば、)
(私たちは、きっとまた会えるから。)

夏の終わり特有のゲリラ豪雨が降り出したのは、その直後のことだ。ログハウスのクリニックの屋根に、雨粒がしたたかに打ちつける。横たわったままの天使に鋭い眼光をぶつける「彼」のことすら、彼女は既に許しているのである。

激しい雨音のせいで、互いの言葉は聞き取れない。しかし、それでも構わなかった。猛獣のように鋭い彼の視線は、彼女の貫くほほ笑みによって緩やかに鎮まっていく。

それから、ふたりは指と指を絡めあい、しばしお互いの体温を確認し続けた。

豪雨が駆け足で去っていくと、はじめて「彼」が口を開いた。

「やっと、逢えたね。雪」
「うん。私たち、これからはずっと、一緒だよ」

見つめあい、笑いあうふたり。過日の悲劇は、今まさにここでほどかれてひとつの光に溶けてゆく。あらゆる痛みは、苦しみは、この瞬間のためにあったのだという、「ふたり」の確信をもって。

エピローグ ゆく夏に穿つ

木内が「白い部屋」の中央で腕組みして、「むーん」と何度もうなっている。岸井はそんな木内を「そんなに難しいことじゃないでしょ」と促すのだが、やはり木内は「むーん」と首を左右に傾げている。

「ピカチュウとピチューの違いがいまだにわからない」

白い部屋の白い壁は、大きなキャンバスとなった。それを喜んだ秀一が、朝からずっと壁いっぱいにポケモンのイラストを描いている。

「これ、だーれだ」

ときかれた木内が、秀一の描いた黄色くて耳の長いなにがしかを指さし、自信満々に「ピカチュウ!」と答えたところ、「違うってば! ピチューだもん」と機嫌を損ねられてしまったのである。

とうとう、この日が来た。いや、ついに来てしまった、というべきかもしれない。

裕明を解放する日が訪れたのである。

裕明が自ら自由を望むことこそ、木内と岸井がなによりも願い、また恐れていたことだった。

物心両面でこれからもサポートはするものの、彼をもうこの場所に引き留めておくことはできない。それは、木内と岸井がつけるべきけじめでもあった。

別れの日。秀一の人格が現れたので、最後に、彼に白い部屋を思うままらくがきさせているのである。心底楽しそうな様子の秀一に、木内と岸井は「これでいいんだ」と自分たちに言い聞かせていた。

クレヨンが擦り切れるまでらくがきを楽しんでいた秀一が、「これ、だーれだ」と、今度は肌色で描かれた二つの楕円形を指差した。

「うーん、こんなポケモン、いたっけなあ」
「違うよー」
「わからないなあ」
「これは、パパとママ!」

こらえきれずに岸井は泣いてしまう。たまらなくなって、木内は秀一を強く抱きしめた。

***

ヒグラシの鳴き声が耳に心地よい。ふたりの部屋で、裕明は白いキャンバスに向かってスケッチをしていた。描かれているのは、木製の椅子に座った美奈子である。耳もとを気にして、首を動かす美奈子に、裕明が声をかけた。

「美奈子、あんまり動かないで」
「ごめん。ピアスが見えないほうがいいかなって」
「赤いから?」
「うん」
「大丈夫だよ。『誰が描いても』、それは『僕』の作品だから」
「そうだね」

やがてキャンバスに浮かび上がってきたのは、背中に羽の生えた美奈子の姿だった。これで完成だといわれて、美奈子は思わず動悸を昂らせる。

「これじゃ、まるで天使だよ」
「そうだよ」
「え」

顔を真っ赤にして俯く美奈子の肩に、裕明は優しく手を添えた。その手をすぐに握り返す美奈子。

「……ばか」
「うん、あたり」

許されることのない罪なら、ふたりで背負えばいい。消えることのない痛みなら、ふたりで感じればいい。果てのない苦しみなら、いつまでもふたりで分け合えばいい。生きることとは常に、痛みを伴う歓びなのだから。

――終わりのないものには、価値も意味もない。翻って人の命は、有限だから価値がある。心臓は、いつかは止まる。だからこそ尊い意味を持っているのだ。

並木の梢が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見ていた。
日の照る砂地に落ちていた硝子を、
歩み来た旅人は周章てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んで来るあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗て陥落した海のことを
その浪のことを語ろうと思う。
騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿いの道を乗手もなく行く
自転車のことを語ろうと思う。

小さな部屋でふたりの影が揺れる。すぎゆく夏に、ふたりは確かな証を穿つ。僕は、いや僕らはここにいて、不器用に痕を遺しながら、それても生きてゆくのだと、今ここに誓おう。誰にでもなく、他ならないふたりと容赦なく巡りゆく季節に、「僕ら」はともに生きていく、と。


ゆく夏に穿つ 完

よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。