ゆく夏に穿つ 第十章 怖い
<第十章> 怖い
「知らない場所って?」
知らない。知らないから、知らない。
「何が見えたの?」
大きな木。その根元に僕らはいるんだ。僕らは寄り添っていて、でも見つめあうわけじゃなくて、同じ空をずっと見てる。
「どんな気持ち?」
わからない。
「そう。それは、今まで経験したことはある気持ち?」
ないと思う。だから、なんか、怖い。
「怖い?」
うん。だって僕は、大切なものを失いながらでしか、生きていけないから。
「そう思うのね」
陽は必ず落ちる。人が必ず死ぬのと同じで。
「そうね」
あの子はどこに行ったの?
「帰ったよ」
どうして?
「どうして、って……」
ねぇ、どうして? どうしてなんだろう、どうして。
「疲れてるね、裕明。今日は早めに寝たら?」
どうして、どうして、どうして、どうして、
「裕明?」
***
「美奈子ちゃん!?」
木内が慌てて周囲を見渡す。ぽつんとスナック「りんどう」がある以外は暗がりでひとりぼっちでいるには心許ない森林が続いており、時折トラツグミの口笛のようなさえずりやフクロウの閑寂な声が響くが、あとは秋の訪れをしのばせた弱々しいヒグラシの音と草木を分け入る小動物の足音ばかりが耳に入ってくる。
いくら人通りがほとんどないとはいえ、女の子一人で歩いて安全な場所でもない。万が一足を滑らせて日原川の巳ノ戸谷にでも落ちたら、本当に洒落にならない。巳ノ戸谷とは、「忌山の悪場」を有する奥多摩の中でも険悪な谷である。沢登りの観光客たちも、初心者には決しておすすめしないといういわくつきの場所だ。
たまらなくなって、木内は森林の奥へと向かおうとした。そこへメイが、「おいおい」と声をかけた。
「ちょっと、この車どうすんの?」
「あとでJAFを呼ぶからいいよもう。それよりも美奈子ちゃんが……」
「美奈子ちゃんっていうの? あの子」
「え?」
メイが視線で示した先に、りんどうのカウンター席に座ってしょげている美奈子の姿があった。
「あー、わー。よかったー」
「良くないです……」
カウンターの隅に置かれた一輪挿しをじっと見つめながら、美奈子は呟いた。
「これでもう、帰れなくなっちゃった」
今にも泣き出しそうな表情で、美奈子はうつむいている。木内は彼女の隣に腰を下ろすと、励ますようにこう提案した。
「ご家族には僕が責任をもってすぐに連絡するよ。岸井さんに迎えに来てもらうにも、そうとう時間がかかるだろうから、今日はうちに泊まっていかないかい。宿直室を貸せるよ」
押し黙ってしまう美奈子。彼女の身の上をよく知っている木内は、この「外泊」という選択肢が彼女にとってどんなリスクを伴うものかは重々承知である。
それでも、木内がそんな提案をするのには、それなりの「意味」があった。しかし、その「意味」を担保するのが「第六感」なのだから、世の中には解明不能な事象のほうが多く満ちているといってよいだろう。
「でも、外泊なんて私、そんなことしたら……」
「ひどい顔!」
言葉を発しかけた美奈子を制するように、メイが美奈子をそう表現した。木内は慌てて首を横に振りまくる。
「な、何言ってんのメイさん」
「美奈子ちゃんっていったっけ? あなたまだ若いのに、なんかもうひどい顔だよ」
「え……」
明らかに戸惑った表情になる美奈子。ティーンエイジャーに向かって、この女性は何を言い出すのだろう。
「美奈子ちゃん、あなた今日のランチは?」
「駅ナカで買ったキイニョンのパンを食べました」
「それだけ?」
「カルピス……は飲み損ねたんだった。クッキーをもらいました」
「それだけ?」
「はい」
メイは長く息を吐くようなため息を漏らした。
「それじゃあせっかくの若さが台無しよ。確かに、キイニョンは美味しいとは思うけどさ」
メイが足早にカウンターに併設されているキッチンに入り、おもむろに何やら準備を始めた。
「7分待ってて」
「7分?」
「その間に、木内ちゃんとの話をつけといてね」
メイは戸棚に並んだガラス瓶から「1.9」と書かれた一つを選び、太めのパスタをひと掴みすると、何のためらいもなく半分に折り、沸騰させた鍋の中に軽やかに投げ入れた。塩を大さじ1と少々を入れ、その後リズミカルな音を立て、包丁でピーマンとベーコン、玉ねぎを次々に刻み始める。
「太めのパスタは半分に折れば、ゆで時間がショートカットできるの」
「へぇ……」
メイの手際に見とれていたのは美奈子だけではない。木内もごくりと喉を鳴らして、料理の完成を待っている。メイが軽い口調で、「ちょっとー、二人してそんなに見つめないでよー」と茶化すと、木内がわざとらしく咳払いした。
「美奈子ちゃん。今夜は泊っていきなよ」
「でも……」
「怖いかい?」
何度もうなずく美奈子。その様子を、メイは見て見ぬふりをしてくれている。
「だって、連絡なんてしたところで、どうせ」
「どうせ?」
「……また、無視とか始まるし」
パスタがお湯の中で茹でられ、ピーマンとベーコン、玉ねぎが鉄のフライパンで炒められる音だけがその空間に響く。美奈子が膝の上で固く結んだ手の上に、ほろりと涙が落ちた。
「わかった。僕が責任者として、主治医として、君のご家族に連絡を入れて事情も説明するから、美奈子ちゃんはまず腹ごしらえをしてほしいな」
木内はそう告げると、席を立ってカウンター奥の固定電話の受話器を取り、美奈子から借りたスマートフォンの電話帳から美奈子の自宅番号を探すと、おもむろに番号を押した。
美奈子は喉もとに、冷たい何かが伝うような感覚に襲われた。うっかり落涙などしてしまったものだから、気持ちがどんどんと下降していくのが、悲しいほど明瞭に感じられたからだ。
「OK! まずはこっち食べて」
重苦しい空気をほどくように、メイが小ぶりの黄色いココットに盛ったポテトサラダを差し出し、ウインクした。
「明日の仕込み分から特別先行リリースね。美奈子ちゃん、どうせ泣くんなら、ちゃんとしっかり食べてからにして」
面食らった表情で、美奈子は目の前のポテトサラダに目をやる。おそるおそる、フォークを手にして一口運んだ。ほくほくのジャガイモが大ぶりに潰されていて、なかなかの食べ応えだ。
ハムときゅうりが彩りを演出し、玉ねぎが食感を楽しませてくれ、程よく効かせたブラックペッパーの香りが鼻に抜けた。飾りでのせられたピンク色の粒は、口の中に入れると優しい香ばしさが広がったものだから、美奈子は思わずメイに尋ねた。
「これ、このフェイクパールみたいなきれいなの、なんですか」
「ピンクペッパー。アクセサリーみたいできれいでしょ」
「はい。これきっと、フォームドミルクとかに浮かべてもいいと思います」
「なるほど! 今度出してみようかな。あ、ウチ一応、喫茶店でもあるのよ。昼間から飲んでるお客さんもいるけど」
メイがちらりと木内を見やると、美奈子は思わずふきだした。
「あと、このじゃがいもも、とても味が濃くて美味しいです」
「でしょー。じゃがいもは檜原村の特産品だからね。あと3分お待ちになって~」
それからの3分間はあっという間だった。茹で上がったパスタを炒めておいた具材と合わせて、大さじ二杯のケチャップをテンポよく入れ、手首のスナップを利かせてよく全体をなじませる。
「はーい、お待たせ!」
美奈子の目の前に勢いよく置かれたのは、閉店後のスナックとは思えない明るさすら醸し出しているような、正真正銘のナポリタンだった。鼻をひくつかせる美奈子に、メイはにやりと笑った。
「さ、熱いウチにどうぞ」
「いただきます」
体が、欲していた。ナポリタンをというより、できたてのナポリタンを思い切り頬張れることそのものを、美奈子は求めていた。それはきっと、ぬくもりだとかあたたかさだとか、この頃ではかなり軽んじられている類のものかもしれなかった。美奈子はあっという間にひと皿を平らげてみせた。
「うーん、全然繋がらないな」
白髪混じりの頭をかきながら、木内は首をひねった。なかなか美奈子の自宅に電話が通じない。一旦木内が受話器を置くと、見計らっていたようにすぐに「りんどう」の電話が鳴った。
「木内ちゃんごめん、出てもらえる? アタシ今、手が離せないの」
メイは美奈子におかわりを盛り付けていたところだった。
「あ、ハイ。お電話、ありがとうございます、『りんどう』です」
医師らしからぬこなれた応対で電話に出た木内であったが、その表情がすぐに青ざめた。電話の主が岸井であったことだけが原因ではない。岸井から知らされた事実に、木内はしばし言葉を失った。
岸井は憔悴した声色で、木内にこう伝えたのだ。
「裕明が、いなくなった」
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第十一章につづく
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。