ゆく夏に穿つ 第二十四章 帰ろう
<第二十四章> 帰ろう
美奈子は異変に気付くと、すぐにベッドから身を起こした。身の危険を察知すると、「誰っ!」と声をあげたのだが、すぐに美奈子は絶句した。
美奈子にとって見たことのない男が、フォークを片手にこちらを凝視しているのだ。
「馬鹿にしやがって」
同年代と思しき男が吐き捨てる。それは、裕明にやりこめられた件の患者である。
「どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって!」
男は躊躇うことなく美奈子に近寄ると、フォークを振りかざした。
「死にたくなければ、俺のいうことを聞け」
そこへ、スポーツドリンクを手にして戻ってきたあおいが、「何してるの!」と咄嗟に叫んだものだから、男は驚いてフォークを床に落としてしまった。美奈子は全身の血の気が引くような恐怖を振り払うように、その男を精一杯の力で押しのけ、壁に打ち付けた。
手負いの獣ほど質の悪いものはない。男は怒りのあまり、わけのわからない喚き声をあげて再び美奈子に襲いかかろうとした。あおいが「やめなさい!」と男性の背中をぽかぽかと殴るが、一向にダメージを与えられない。
美奈子はどうにか逃れようと、のしかかる男の髪の毛を強く引っ張った。
「ちくしょう!」
男の叫び声を聞いて、美奈子はいたたまれなくなった。この男の声が、悲鳴のように聞こえたからだ。
あおいが、「誰かーっ!」と叫ぶと、処置室の扉がゆっくりと開いた。そこへ現れたのは、薄ら笑いを浮かべた裕明であった。
裕明の姿を視認すると、男は体を強張らせた。
「お前っ……」
男が一瞬脱力した隙に、美奈子は身をよじってどうにか離れることができた。
「懲りないねェ」
裕明の口調で、視線で、美奈子は気づいた。今、彼は「裕明」ではない。好戦的で挑発的な、あいつだ。
「わかんないの? 散々痛い目ぇ見ても。馬鹿にすんなって言うけどさ、馬鹿に馬鹿って言って何がいけないんだよ?」
裕明――いや智行の言葉に激昂した男は、怒りの感情に任せて智行に飛びかかった。当然智行がそれに捕まるわけはなく、ひらりとかわすと、男の後頭部に思い切り拳を打ち込んだ。
男はうめき声をあげると、そのままその場に卒倒した。
「なに、なんなの?」
あおいが戸惑い言葉を発する。美奈子は、口から泡を吹いている男と智行を交互に見て、
「なにも、そこまでしなくても……」
と震える声でいった。智行はへらへらと笑う。
「恩人に向かって、ずいぶんなお言葉じゃねえか、美奈子ちゃん」
あおいは真っ青な顔になりながらも、「先生を呼んできますっ」と去っていった。
「……別にいいや。俺の用事はこれからだから」
「え?」
智行は床に落ちたフォークを拾い上げると、なんの躊躇もなく自分の腕に突き刺した。
「何をしてるの!?」
美奈子の問いに対し、智行はいつもの軽薄な表情の中にどこか神妙な色彩を滲ませながらいった。
「お前に、頼みがある」
「えっ」
「あいつはもう限界に近い。じき『ゆりかご』に護られ尽くされて、消えてしまうかもしれない」
「何を、言っているの?」
「そうなる前に、『ゆりかご』を壊さなきゃならない」
「『ゆりかご』……?」
「……できるか?」
そういって、智行はフォークを投げ捨てて、流血する腕を美奈子に差し出した。
「え……」
美奈子は、智行の目をじっと見た。透き通った茶色の中に、果ての見えない憂い。それが今は痛みで少しひずんでいる。
ぽたぽたと彼の血液が落下して、床に染みを作っていく。大切な彼の一部が、無残に乾いていってしまう。
「チッ……」
智行が痛みに眉間にしわを寄せる。それから一瞬だけ視線を中空に泳がせると、ガクンと首を下げて、意識を手放した。
美奈子は彼に駆け寄ると、どうにか出血を止めようと彼の腕に触れた。しかし、ぬめっとした感触にその手が戸惑ってしまう。その刹那、美奈子の腕は出血していないほうの腕で彼に掴み返された。
「あっ」
「雪」
「――!」
現れた人格に、美奈子は息を飲んだ。――「彼」だ。
「雪。きみに、すべてを知ってほしい」
「あなたは……」
「これは、きみにしか、できないことなんだ」
「どういうこと?」
「約束しただろう、君と俺は、必ず結ばれるって」
「……!」
彼のその言葉に、美奈子は、自分が何をすべきかを直感した。そこに迷いがなかったといえば噓になる。しかし、これは自分にしかできないことなのだと、そのことも美奈子は理解してしまった。
決断までに時間はない。それは自分にしかできないこと。目の前で彼が血を流している。その彼が「約束」を口にする。
だから、私は行動する。
どんな理屈も論理も越えて……心が、そうしたいと叫んでいるから。
美奈子は、そっと彼の腕を抱き寄せると、思い切って彼の流す血を口に含んだ。口の中に広がっていく、彼の血の味。彼が、彼らが、生きている証としての感覚。熱い衝動が、美奈子の全身に湧き上がってくる。
――視界が突然、ブラックアウトした。
その直後、寄り添っていたはずの彼の姿が見えなくなって、美奈子は一人、奇妙な場所に放り出された。
動脈のように鮮やかな紅と、静脈のようにどす黒い赤に支配された空間。生きているという現実を突きつけるにおいと、じっとりまとわりつくような空気に、美奈子はひるんだ。
それでも、ぬめぬめとした地から立ち上がり歩きだしたのは、もう彼女にはわかっていたからだ――自分が今、これから、何をなすべきかを。
ずくずくと脈打つ空間の最奥に、ひときわ大きな血塊が蠢いていた。これが、彼を護り続けてきた「ゆりかご」なのだ。巨大な生物の口のように切れ目がぐっと開くと、その中で彼が胎児のように身を縮こませて存在しているのが見えた。
私がすべきことは、ただ一つ。
美奈子が血塊に手を伸ばそうとすると、激しい痛みが走った。ナイフで深くえぐられたような、熱をもった深い痛みだ。それでも美奈子は腕を除けなかった。今ここで私があきらめてしまったら、「この子」を助けることができないから。
この空間を統べる「ゆりかご」は、美奈子に苛烈に問いかける。
そんな自己犠牲がこの子を救うとでも?
いいえ、これは自己犠牲なんかじゃない。
では、その行為になんと名をつけよう。欺瞞か、お為ごかしか。
――違う。
美奈子が痛みをおして血塊に触れると、それは見た目に反して人の体温を宿したあたたかさを持っている。しかし、触れた部分からその温度が失われていくのを感じた。
お前の身勝手な侵襲は、この子を壊してしまうかもしれない。そんなことは許さない。
この痛みは、私だけのものじゃない。彼だけのものでもない。
では、答えてみろ。お前のその行為はなにゆえか。
わかっているでしょう、あなたも。確かにあなたはゆりかごかもしれない。でも、いつまでも人はゆりかごにはいられない。そうでしょう。
「起きて!」
美奈子は彼に呼びかける。声を出すたび、今度は声帯がひりひりとひどく痛んだ。それでも美奈子は呼びかけることをやめない。懸命に、全身全霊のちからで血塊を抱きしめる。経験したことのない痛みが美奈子を襲う。体がほうぼうへ引き裂かれそうになる、それはきっと彼が――江口裕明が、人格の分裂を余儀なくされたときの痛みに似ているのだ。だったら、それを、自分も味わうべきなのだ。
だって、私は——
「裕明!!」
それまで彼を守り続けてきた血塊が、びくんと大きく脈打ったのち、石灰岩のようにぽろぽろと崩れはじめる。それと同時に、美奈子の立っていた場所も崩落し、亀裂の入った血塊を抱いたまま、美奈子は奥深くへと落下していった。
赤々とした空洞に、涙のように血が降り注ぐ。あるじを失った緋色の空間は縮小を続け、そのまま弾けて散って消えた。
次に美奈子が気づいたとき、四方八方が鏡でできた空間にいた。そこに、美奈子と少女が対峙している。その姿が、合わせ鏡に永遠に続くように映っている。
少女は無表情のまま無言で、じっと美奈子を見つめている。その手に、幾重にも編まれたリリアンを握りしめて。
――わかっているよ。大丈夫。
美奈子は躊躇うことなく彼女に歩み寄り、こういった。
「会いたかった」
彼女はなおも美奈子から視線を外さない。やがて緩慢な動作で、リリアンを自分の首にかけようとする。それでも美奈子は退かない。
「私は、あなたを知ってる」
美奈子は彼女のリリアンを手に取って首元から外してあげると、凛とした口調でいった。
「一緒に帰ろう、雪さん」
「……どうして?」
少女――雪は暗い声色で問いかける。美奈子は、ゆっくりと雪を抱きしめた。
「あなたを、待っている人がいるから」
「誰が……?」
「あなたは、もうゆりかごじゃなくていいの。あなたはあなたとして、逢いたい人に逢っていいんだよ」
雪は、その手からリリアンをはらりと落とした。そうして美奈子を抱きしめ返す。その小さく細い腕は、かすかに震えている。
「……あの人に、逢えるの?」
雪の、恐れと歓喜に満ちた声が、美奈子の鼓膜を優しく打つ。美奈子は華奢な雪の肩を抱いて、目を真っすぐに見ていった。
「そうだよ。あなたが逢いたかった人が、あなたをずっと待ってる。だから、一緒に帰ろう、雪さん」
雪は、細い首を精一杯に縦へ振った。そのとたん、二人を取り囲んでいた鏡たちがいっせいに粉々になって宙を舞った。二人はすき間から入りこんできた、体温を持った柔らかい闇に飲まれて包まれていく。二人は手を繋ぎあっていた。
もう何も恐れることはない。大丈夫だからね。
ずっと待っていたの。どんなに逢いたくても、逢えなかった人なの。
そっか。寂しかったよね。
寂しかった。悲しかった。怖かったし、虚しかった。
そうだったんだね。よく頑張ったね。
あなたも。よくここに来てくれたね。
うん。ありがとう、雪さん。
うん。……ありがとう。
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第二十五章~エピローグにつづく
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。