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ゆく夏に穿つ 第十七章 願い

<第十七章> 願い

ひとしきり話を終えた裕明は、昂ぶった呼吸を整えるために、長くため息をついた。

「そういうことなんです」

力なく笑ってみせる裕明に対し、美奈子はあっけらかんと右手を、再度高く上げた。

「はーい、先生!」

裕明の過去を聞いてもまったく変わらない美奈子の快活な態度に、裕明はやや面食らった。彼女のまっすぐな瞳に、やや気圧されてしまっているようでもある。

「……僕は先生じゃありませんけど、なんですか」
「裕明さんは、1ミリも悪くないです」

美奈子がそう断言するも、裕明は首を横に振るばかりだ。

「みんな、そうおっしゃってくれます。傾聴ボランティアさんたちって、みんな優しい方ばかりですから」
「ボランティア?」
「でも、僕が修学旅行を阻止できていれば、あの子たちは死なずに済んだ。その事実は変わらない……だから、僕は人殺しなんです」
「だって、裕明さんにそんな権限がありましたか? なかったじゃないですか。裕明さんはただ、事件を予見していた、しかもそれを教員に伝えていた。できることはしていたと思います」
「本当に、皆さん優しいからそう言って……」
「それに私、別にボランティアに来たわけじゃありません」

美奈子のこの言葉に、裕明は疑問符を隠せない様子で首を傾げた。

「違うんですか?」
「私はここに通っている、ただの患者です」

裕明は不思議そうに目をぱちくりさせる。

「ただの患者さんが、どうしてここに」
「わかりません」
「はい?」
「わからないものはわかりません。ただ、昨日あなたが朗読していた詩、あるでしょう」

美奈子の言うところのそれは、中原中也の「雪の賦」である。

「あれ、一部間違ってました。それが気になっちゃって」
「えっ」
「裕明さん、『幾多々々の孤児の指は、そのためにかじかんで、都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。』って朗読してましたね」
「あ、ハイ」
「それ、諳んじてたんですか」
「ええ、まあ」
「あの詩の中で孤児がかじかんでいたのは、『指』ではなく『手』です」
「あ……」

その指摘に、途端にフリーズする裕明。それを見た美奈子は「そこ、固まるところですか?」とツッコミを入れると、思わず二人でケラケラと笑いあった。

「あんなに堂々と間違えてたら、それはもう一つの形なんじゃないかなって思います。私は、そういうの好きですよ」

思いがけず「好き」という単語を口にした美奈子は、自身が急速に赤面するのを止められなかった。慌てて、

「あ、いえ別に変な意味じゃないです」

などと言い訳するも、裕明がおずおずと

「……違うんですか」

とぽつりとこぼすものだから、美奈子はますます動揺して、こんなことを口走った。

「違うっていうか、違わないっていうか、あの、えっと、わかりません!」
「はい?」
「とにかく『指』じゃなくて『手』ですからっ」

開き直らんばかりの勢いの美奈子に対し、裕明はクスッと笑った。

「なんで笑うんですか!」
「ごめんなさい、でもなんか、かわいいなって」

言ったそばから、今度は沸騰せんばかりの勢いでユデダコ状態になる裕明。美奈子も裕明も、自身の発言に自滅してお互い真っ赤な顔で俯いてしまう。
しばらくの沈黙の後、口を開いたのは裕明だった。

「喉、渇いてません?」
「あ、はい。何かいただければありがたいです」
「今あるのは、牛乳かバリウムです」
「実質一択ですね」

裕明と美奈子は、声を合わせて笑った。

***

開店して間もなくのりんどうにやってきたのは、青梅警察署の若宮だ。

「あら、珍しいお客さん」
「ここ、まだ吸えるんだっけ?」
「経営者として公言はできないけど、まぁ私が吸うからね」

メイが言い終えるのを待たずに、若宮はカウンター席に腰を下ろすと、懐からよれよれのセブンスターとライターを取り出して火をつけた。

「今日の日替わり、何?」
「鳥の竜田揚げ。付け合わせはポテサラ。あと先着数名でミニパンケーキ」
「パンケーキ?」
「朝食の生地が余ったから、オマケ」
「うん、好きでしかないな。頼むしかない」
「相変わらず変な刑事さん」

メイが微笑むと、若宮は「へっ」と照れ隠しに鼻を鳴らしてみせた。

「あんたも、相変わらずだよ」
「あら、褒め言葉?」
「どうだか」

メイが手際よく食事の支度を始めると、若宮は一本目のタバコを携帯灰皿に押し入れて腕組みをした。前にしか進まない柱時計の針を睨みつけ、ふと独りごちる。

「『思い出』ってのは……どうして美化されちまうんだろうな」
「え?」
「いや、どうして世の中にはふた通りの人間がいるのかなってな」
「どういう意味?」
「過去に縛られて身動きできない不器用な奴と、過去を好き放題改ざんしてのびのびと生きている器用な奴」
「……若宮さんは、どう考えても前者ね」

若宮は再び鼻をスン、と鳴らした。

「忘れられないってのは、都合のいい文脈ではあまり使われないからね」
「……『あの事件』のこと?」

若宮は頷くかわりにメイの背中に視線をやった。

「俺もさ、たくさん『現場』なんてのは見てきたけど。あれよりひどいのは知らないし、あんなのを目にするのはもう二度とごめんだから」

メイは「そう」と短く返事をすると、下ごしらえしてあった鶏肉を熱した油の中に投じた。

「なんか感傷的ね。何かあったの?」
「別に……。ただ、旧知の仲ってのが、同じ場所で足踏みしてるのを目の当たりにして、なんとも言えない気分になっただけさ」
「木内ちゃんのこと?」

その問いかけには直接答えずに、若宮は胸ポケットから一枚の古びたきなりのハンカチを取り出した。それをカウンターに広げると、中央付近に茶色がかった染みがついている。

「こうして居残るんだよ、誰の存在も。誰かの中に確かな傷跡として」

揚げられた鶏肉にナイフを入れようと振り返ったメイは、少しだけ驚いた表情をした。

「……それ、洗ってないの? もしかして」
「何度も洗ったよ。でも取れないんだ、これだけは」

その染みは、はるか昔の血痕である。この染みがつけられた時のことを、しかし若宮は昨日のことのように覚えている。

あの日、駆けつけた若宮の目に飛び込んできたのは、凄惨という言葉が軽率に聞こえてしまうほど残酷な事件現場だった。「あの子」は、泣き叫ぶことさえできずに、ただ目の前の光景を目に焼き付けてしまっていた。

救助したのち、その少年の目を、持ち合わせていたハンカチでぬぐった。血痕は、その際に吸われたものである。少年の顔面は血まみれだった。しかし、その血液は少年のものではなかった。

少年の体が次第に震えだしたので、若宮はどうにか彼を守ろうと、「もう大丈夫だ、大丈夫だから」と何度も声をかけた。ところが、少年は恐怖やショックで震えていたわけではなかった。

――少年は、笑っていたのである。

***

人が傷つきながら、あるいは傷つけながらでしか生きていけないのは、生命に必ず終わりがあることに所以するのかもしれない。傷ついただけ傷つける。なにもかも等価交換なのだ。

僕は、生きている。それも、たくさんの人を傷つけながら。傷つく以上に傷つけているのだから、間違いなく過分に見合うだけの天罰が下るのだ。こんな風に誰かと一緒によく冷えた牛乳を飲んで笑いあうことなんて、本当は許されてないんだ。

わかってる。わかってるよ。わかってます。

でも、神さま。もしもあなたがどこかに存在するのなら、この誰の気にも留められないちっぽけな僕のこの命の灯火を、早く吹き消してください。

「どうしたんですか?」

この子は何の屈託もなく僕の瞳をまっすぐに覗き込んでくる。僕はその視線に耐えられず、力なくうつむいてしまった。

「あれ? もしかして、また人格交代ですか」

そして恐れや不自然な遠慮を知らないのか、僕にそんな言葉をかけてくる。いや、かけてくれる。

「あらら、今度は誰だろ。あの乱暴な奴だったらどうしよう〜」

そう言いつつも、彼女の表情は穏やかだ。こんな人は、今までいなかった。僕の中に確かに『居る』人々の存在を腫れ物か、忌避すべきモノとして扱った。ひどいときには僕が詐病だと勝手に決めつけて、つまらない演技で人の気を引くような哀れな人間だと断罪してきた人さえいた。

そもそもが、間違っているのだろう。真っ白な部屋に白で統一された調度品の数々。僕は、ここでずっと守られている。死ぬまで、きっと。呼吸と鼓動は続く。僕自身は望んではいないのに。

意味がないのだ。この部屋で時を独り重ねたところで、最後には僕はこの美しすぎる世界にとっての塵のような黒点になり下がり、誰からも忘れ去られて生命の奔流という名のフレアに飲み込まれて消えるのだから。

「……ごめんなさい」

僕は蚊の鳴くような声で謝罪した。

「え、何が?」
「人格、代われないみたいです。自分の意思ではコントロールできなくて」
「なんだぁ、嬉しい!」

真白い花の咲むような明るい笑顔を彼女は浮かべる。

「よかった、じゃあもうしばらく裕明さんとおしゃべりできますね」

その笑顔があまりに眩しくて——文字通り、部屋には燦々と陽光が差し込んでいて、だから僕の視界に一瞬だけ、女神が現れた。黒髪セミロングでほんのすこしふっくらした、頬のピンクが優しくて。

「メイさんに聞きましたよ。『りんどう』の看板の花、裕明さんが描いたんですってね! 力強くて、それでいて繊細なタッチがカッコいいなって思いました」

自分の絵を、そんな風に評してもらったのも初めてだ。僕は思わず頬を右手の人差し指でかいた。

「絵は、我流です。神保町の古本屋でたくさん絵の本を仕入れてくる変人がいるから、それで少し知識は……」
「あー、あのソフトボール好きの変人ですね!」

僕らは笑いあう。彼女は丸っこい手を叩いてはしゃいでいる。

なんだろう、この感覚は?――こんな時に限って、『誰も』返事をしてくれないんだもんな。

「あ、そうだ」

彼女は何かを思いついたようで、手をポンと鳴らすような仕草をした。

「じゃあ、何か描いてくれませんか?」
「え?」
「裕明さんが将来、売れっ子の画家になったら、それをメルカリで売ります」
「売るんですか」
「冗談です」

そうしてまた、僕らは声を合わせて笑う。
「わかりました。クロッキーでもいいですか?」
「やった! 何を描いてくれるんですか?」

空が今日はあまりにも高いから。風がそよそよ自由を伝えてくるから。優しさを惜しみなく与えてくれるから。理由なんていくらでもあったし、どれもこじつけに過ぎないのかもしれなかった。

さながらそれは、『衝動』の類であったのかもしれない。

「僕は、美奈子さん——あなたを、描きたいです」





第十八章につづく


よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。