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ゆく夏に穿つ 第十一章 定規

<第十一章> 定規

岸井の気持ちを落ち着かせようと、木内は「深呼吸を」と彼女に促した。

「裕明に特段、おかしな様子はなかった?」
「野暮なこと言うのね」
「え?」
「『おかしい』って、まるでどこかに『おかしくない』って定規があるような言い方」
「ごめん、表現が悪かった。でも、いつもの裕明と何か違うところはなかった?」

岸井は少しだけ沈黙した後、「もしかしたら」と前置きしてこう漏らした。

「美奈子ちゃんが」
「え?」
「……何らかの、きっかけになったかもしれない」

木内は思わず美奈子の方をちらりと見た。美奈子は頬を温めながら、美味しそうにナポリタンのおかわりを食んでいる。

「いやまさか……そんなこと……」
木内がつぶやき終える前に、受話器の向こうから何かが落下したような大きな音がした。

「岸井さん?」

続けて、木内の耳に鈍い音が飛び込んでくる。岸井が受話器を落とし、それが床にぶつかったのだ。

「え、岸井さんどうしたの?」

すると受話器の奥から、岸井の怒鳴り声が聞こえてきた。

(そんな物騒なもの、どうするの!)
「えっ」
(やめなさい、やめて!)
「岸井さんっ、恵美っ?」

木内の呼びかけ虚しく、電話は「その男」の手で無理やりに切られてしまった。

「まさか……」

木内の脳裏に嫌な予感が走る。しかしそれを振りほどくべくすぐに強く首を横に振った。しかし、「絶対」はこの世に滅多に存在しないこともよく解しているので、木内は固唾を飲んだ。

「なんかあったの?」

メントール系のタバコに火をつけながら、メイが木内に問う。木内にいつものようにヘラヘラする余裕はなく、受話器をそっと戻すと、メイにすがるようにこう答えた。

「メイさん、スクーター貸して」
「いいけど、美奈子ちゃんどうすんの?」
「ごめん。あとで連絡する」
「どうしたの」
「恵美になにかあったかもしれない」
「まさか、やめてよ」
「頼む。必ずガソリン満タンにして返すから」
「そんなこと、どうでもいい。これ使って。地面が相当ぬかるんでるから、気をつけてね」

冷蔵庫に掛けられていた四つ葉のキーホルダーを渡したメイに何度も頭を下げ、木内は店を飛び出してスクーターのエンジンを全開にし、去っていった。

「え、あれ、先生?」

メイは何も知らずにおかわりのナポリタンを完食した美奈子に、人差し指をピンと天に向けて、「美奈子ちゃん。今晩はウチに泊まってきなさい。朝食に、エミちゃん直伝のパンケーキをふるまうよ」と提案した。

「パンケーキ!」

目を輝かせる美奈子。しかしすぐに、「でも、家族が……」と表情を曇らせる。メイは美奈子の肩を一回だけ強めに叩いた。

「何度もかけたのに留守電にもならなかったのは、別にこちらの落ち度じゃないでしょ」
「でも……」
「何かあったら、クリニックの……というか木内ちゃんの責任。それでいいじゃない」
「そんな」
「わきまえるの。これ大事。でもって、それは『我慢』とは別物」
「え?」
「自慢じゃないけど、我が家は毎日ヒノキ風呂なんだよ。この店を開いたときに、商工会議所の会頭の息子さんがプレゼントしてくれたの。まあ、自慢なんだけどね」

開店祝いが別棟のバスルームとは、なかなかの大盤振る舞いである。

「その代わり、泊めるのタダってワケにはいかないな」

メイの言葉に、美奈子は思わず持っていた鞄の中の財布を手で探り出したので、それを見たメイは首を一回だけ横に振った。

「お金なんていらないよ。ただ、今夜はおしゃべりに少々お付き合いいただこうかな」
「私、まだお酒は……」
「真面目だねぇ。今いくつ?」
「もうすぐ十九歳になります」
「誕生日近いんだ」
「はい、今月の二十九日です」

それを聞いたメイは、両手をポンと合わせた。

「乙女座! 美奈子ちゃん乙女座だね。確かにそれっぽいわ」
「そう、ですか?」

メイはキッチンの奥に置かれた小ぶりのキャビネットから、タロットカードを取り出すと、カードの束を、慣れた手つきでさばいてみせた。

「あたしね、都心にいた頃は占い師やってたの。『ローズメイ』って名乗ってね」
「ええっ!」

突然の告白に驚きを隠せない美奈子。その素直な反応に好感を持ったメイは、「ねぇ、美奈子ちゃんのこと、占わせてくれる?」とウインクした。

***

往来のほとんどない道路を、制限速度を大幅に超過して木内はスクーターを爆走させた。信号の赤で引っかかることがない土地柄に感謝せずにはいられなかったが、それ以上に彼の中では焦燥感が優っていた。

(自分のやりかたは、やはり間違っていた?)

夜の鳥たちは、黙して多くのことを人間に投げかけているようであった。果たして、お前たちは何もわかっちゃいないんだよ、などと。

(奥多摩という環境に、甘えていただけか?)

ぼんやりとあかりの灯ったクリニック入口にスクーターを停めると、木内は固定電話の置いてあるロビーへと階段を駆け上がった。

「岸井さんっ」

息の上がった木内が扉を全力で開くと、その視界に異様な光景が飛び込んできた。

少し前に入院してきた二十歳の男性患者が、裕明に取り押さえられてぐったりしている。傍らには血が付着して刃の欠けたカッターナイフが落ちており、そのすぐ横に置かれた椅子の上で、岸井が真っ青な顔をして座り込んでいた。

「大丈夫か!」

木内が岸井に駆け寄り、目立った怪我がないことを確認する。岸井は震える声を絞り出した。

「私より、裕明が」

顔面蒼白の岸井が、裕明を指さす。木内が振り返ると、獣のような鋭い瞳をたたえた青年が、同じ年齢くらいの男性を力づくで押さえつけていた。

「裕明……じゃ、ないね。君は、智行かい」

呼びかけられて、青年の瞳が細められた。

「もー危なかったよー。コイツ、持ち込んだカッターで岸井さんのこと、襲おうとしちゃってさー」

彼は軽薄な口調で、重々しい現実を吐いてみせる。間違いなく裕明の人格は今、智行——夕刻に美奈子の前に現れた男——であると、木内は確信した。

それがわかると、木内は正直なところ胸をなでおろした。裕明に出現している人格が「あの男」ではなかったからだ。

裕明——もとい智行に取り押さえられているのは、都心の病院から家族との関係悪化のために病状が悪化して医師が匙を投げたために転院を余儀なくされた、大学休学中の男性患者だ。

その彼がなぜ愚行に及んだのかを詰問はしない。すべきではないし、そんなことをしたところで何の解決にもならないことを、木内は心得ている。

「にしても、この味、ひっさしぶりー」

智行は己の左手のひらにできた裂傷から垂れてきた血をひと舐めした。この男性患者から岸井を引き剥がした際にできたものらしかった。それを見た木内の胸が痛む。

「ちゃんと、消毒しよう。雑菌が入ったら膿んでしまうよ」
「それより先に『コレ』、どーする? なんか、動かないんだけど」

木内は内線で、男性看護師2名を呼び出した。そしてすっかり気絶しているその男性患者の介抱を指示すると、入院棟へと連れて行かせた。

「あーぁ。何、アイツ独房行き?」

皮肉っぽく智行が笑う。その唇は自身の血で汚れており、まるでB級ホラー映画に出てくるキャラクターのようだった。

「そんなことはしないよ。このクリニックの矜持に反するからね。これからじっくり時間をかけて、彼とは話をしたいと思う。それより——」
「まぁ、別にどうでもいいんだけど」

木内は岸井に寄り添い、彼女が落ち着きを取り戻すのを手を握ってじっと待った。柱時計の秒針が一周した頃、最初に口を開いたのは智行だった。

「アイツさー、困ってるよ」
「『アイツ』と君が言うときは、決まって裕明のことだね」

木内がそう返すと、智行はわざとらしく肩をすくめた。

「俺が他の誰に興味を持つってんだよ。当たり前だろ」
「裕明は、何に困っているんだ」
「自分じゃ絶対わかりっこないさ。免疫がないんだから」
「免疫?」
「有り体に言えばさー、ありゃあ、恋煩いだね」
「えっ」
「世の中には、あるんだろ? 『一目ぼれ』って現象が」

ニヤケながら言い放つ智行に、木内は膝から脱力せざるを得なかった。





第十二章につづく


よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。